真剣になりすぎた社会の危うさ

真剣になりすぎた目は周りに目配せする余裕をなくし危ない道を突き進んでしまう危険がある。一見不真面目に見えるくらいの態度がいいのである。広く大きく包み込むような包容力で安心感を伴って進んでもらいたいものだ。

冷却ファンの故障でPC機器が故障ってことが結構ある

高価なPCも安物のファンでお陀仏というのはある。ファンが回らなくなって熱暴走とか。ファン一つでもPCの寿命は全然違うよな。やっぱり無音PCだよ。それにフラッシュメモリ搭載のゼロスピンドルて回転物が一切ない無回転PC。

ところ色は人間が出現する前から赤や青や黄があったんですよね

生物の中では豊富な色を見分けられるのはそれほど多くないらしい。中には人間より広い範囲を認識できる生物はいるが人間程豊富に観察できる情報処理をもった組織をもった生物はいないのではなかろうか。いや単に色の認識だけだったら負けるかも知れないがそこから感じる複合的な感覚は大きな大脳組織を持った人間ならではだろう。自惚れかもしれないが。で、人間が出現する前からこの世界はフルカラーだったわけですが、まさか人間が登場する前まではモノクロームだった何て事は考えられないわけで、それだったら植物の光合成も説明できない。緑色だったから光合成が可能だったわけで恐竜が闊歩していた時代緑のジャングルに覆われていたと想像するわけです。しかし証拠は何も残ってないわけで実はその頃の植物は青だったらどうしよう。青だと空や海と同化してしまって目立たないから絶滅してしまったのではないか。目立たないから生き延びるとも考えがちだが植物は動物との共存でその繁栄をもたらしたとも言える。
 草食動物が植物を食べる事により糞や屍骸がその土地を肥沃にさせ種子を運んでくれ生活圏を拡大させる。話がずれた。その頃も色を見分ける生物はいたのだろう。その頃の絶景は誰が感動したのだろうか。風景は感動する為にあるわけでもなく絶景と思うのは人間の勝手である。自然の造形は視覚の存在を必要としないともいえるが。では全ては人間が登場するまでに準備されたテーマパークかというのも傲慢すぎるだろう。光の波長の差を色として認識しているのは錯覚なのか。その波長の経験の蓄積が赤を赤として見せしめている理由なのか。
赤い色が何故「赤く」見えるのか教えてください。赤色が波長700n… - 人力検索はてな

国が進めるといった場合の国の決定とは民主政治なら多数決の意見であるはずである

よく新聞が国の決定に異議を唱えるがそれはそのまま国民に向けられたものであるはずだ。そういう事が平気で言えるのは民主主義が定着していないからなのか。今でもお上意識が強くて知らず知らずにそういう意識で物事を見てしまうのか。結局社会が未成熟というしかないのでは。

この世はインサイダーと詐欺と強請で出来ている

そんなぁ、身も蓋もない事言うなよと咎められる。夢も希望もないじゃないか。まったく。言葉は綺麗事を言う為にあるんだろう。人間腐ってますね。

日本以外全部沈没で日本は生き延びられるか

こんな不謹慎の事を考えていいのかという気もしますが。食料自給率の低い日本で食べていけるのかがまず心配になります。というかそれがテーマみたいなものだろうが。お米だけは確保できるから大丈夫?本当にそうだろうか。まず石油が全滅で車はダメ。電気も無し。てことは電車もストップ。インフラは殆ど機能不全ですね。という事で大都市は殆ど遺棄されるのではないだろうか。それこそ産地消費で米所に人口が集まる。工業も原材料のストップで壊滅。すべて江戸時代のラインまで後退を余儀なくされると。それでも江戸時代の鎖国でそういう生活感覚を失っていないから意外に早くそういう生活に移行できるかもしれないな。あっ海洋資源独り占めでかなり裕福な暮らしが出来るかも知れないな。希望がわいてきた。そういう問題か。

なぜ生物は存在するのか

神様が大地や水や鉱物だけの世界に彩りが欲しいというだけで生物は生まれたわけではないだろう。環境がそれを志向したのか。生物の機能に環境を改変するという事がある。現在の大気も生命の呼吸などが元になって現在の組成に成り変わった。ならば環境汚染も生物活動の結果であるが自己保存の能力から見ても反動は当然か。頼まれもしないのに発生してしまったのが生命なのか。環境に発生する余地があったから出現したのだ。で、結局は環境改変が目的なのか。人間の建設の歓びはそんな生命の本能からきているのか。結局は物理の問題でただそれを回りのエネルギーや環境を利用する運動体が生まれただけという冷ややかな見方もある。ただそれだけ。なるようにしかならない。そこに感傷は無用だ。

ある程度まで喫煙率が下がったらタバコは大幅値下げすべき

本当に吸いたい人に負担を課すべきではない。今は救済的側面(煙草を止められない人の)としての臨時の値上げ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060630-00000009-jij-soci

日本の死刑制度は犯罪者への温情からきている

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060626224745/index.html
日本では死によって全ては許されるということが前提になっている。ので死者をむち打つ事はいけない事とされ犯罪者は死を持って名誉が回復されてしまうのである。それが靖国問題の本質でもある。日本が懲役100年とか250年とか刑期を取らないのも死んでまで名誉が回復さらないのは哀れ過ぎると言う配慮なのだ。日本は犯罪者にも優しい国なのです。
しかし児童殺傷の宅間被告のように死を望む人間には犯罪予防という観点では死刑は機能していないですね。

最近はメンタル系の病気の解明が広まっているが

これをどう見るかは難しい問題が含まれているような。確かに名前を付けられて病名が確定すれば安心できる部分がある。それは自分のせいではないという他責でもある。これを拡張すると犯罪者も嗜好癖という事に還元されて殺人嗜好癖や強姦嗜好癖と名付けられて加害者がその病魔に冒された被害者という見方をされてしまう危険がある。例えそうであっても社会にとって有害であれば社会はその存在を放置する事はできない。で、メンタル系の病気も全ても病気のせいにして自分は○○だから仕方ないと安心しても始まらないし、逆にこの不安はエラーなんだと安心できる部分がある。昔は神経質の一言で終わった事が今は脅迫性障害やらいろいろな名前がついて正しい治療が行われて助かっている人と何でもそれを自分に当てはめて不安になっている人と情報が混乱しているかもしれない。名前を付けても何の解決も至っていない。それで安心できればそれは有効。しかしそれは解決の手段が与えられただけでそこから始まるのだからそこで終わってしまっては何にもならない。