荒川の衣装がエロエロな件

この世には裏では堂々と語られている事が表社会では巧妙に隠蔽されているという事がある。この件もその一つだと思うのは素晴らしい、感動をありがとうという見方しか許されていないような奇妙な圧力があるような気がするからだ。何年か前に写真雑誌がスポーツの姿態を撮る事で問題になった事があったがどう沈静したのだろうか。そういうことは些細な事だとして問題にしない事にしたのかもしれない。フィギュアの衣装がより大胆になっているように見えるのはその現われではなかろうか。中でもエキビションで着た荒川の衣装は凄かった。あれは殆ど裸と同じと思うのは自分だけだろうか。それともそれは裸の王様を裸と言ってはいけないように言ってはならない事なのだろうか。それは自分がスポーツを正しい見方ができない、芸術が分からない野蛮な人間だからなのだろうか。
しかし、そんな人間がこれからのフィギュアを予想すると近い将来裸で演技するのではないだろうかと思ってしまう。元々芸術ではヌードの表現があるのだし、それが理想なのだろう。それが理解できない人がいるから衣装を着けるというスタンスだろうし。それは社会の理解が進めばそうなるということであり、社会はそういう方向に進んでいる。これはスポーツだから神聖なものだからという気運がそういう社会常識、文化、流行を作っているのだから。

国際政治の現実は

核不拡散条約に加盟していないインドとアメリカが手を結ぶという事。韓国も核開発をしていた事実もあったしイランも核を持とうとしている。そういう世界で平和だけを訴えるやり方は何の意味も持たない。世界のなかでは法律というのは無い。法律は国ごとの決まり。僅かに国連の存在はあるが殆どは強制力を持てない。そこで作用するのは力対力のパワーゲームそれが現実。

ルワンダ議論がダルフールに目を向けないなんて

2006-02-25
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060305/p4
昔の歴史を引き出してなぜ虐殺が起きるのか考察するのも大事なのだろう。しかしルワンダから10年しか経っていないのに再び虐殺が起こったダルフールを無視して話す話題とは何なのか。それは優先順序が違うでしょう。それこそ可及的速やかに話題にしなければならない事ではないのか。目の前にある危機を無視して本質は何か何て話されてもそれでは火事の最中にどうやって逃げるかを考えないで火事の原因を探るようなものではないか。
ホテル・ルワンダをあと三百軒ほど: 極東ブログ
確か『ホテル・ルワンダ』のモデルの人もユダヤ人の追悼式典で欧米の指導者が反省の弁述べてる中でダルフール危機を回避できなかった事を絶望していたのではないのか。
http://diary.yuco.net/20060223.html#p01
そういうエピソードがあるのにダルフールがトピックにならずに議論が進んでいくのに何でそこまで迂回されなければならないのか。それほど日本ではマイナーなトピックなのか。
産経ニュース
ダルフール危機がチャドに及ぶ: 極東ブログ

という私はコタツでぬくぬくしているのだが

それで何も感じなくなった。パジャマ姿でニュース発信するのがブログだし。そもそもここはニュースも発信してないし。ただ思ったことを無責任に言い募るのがこの日記です。