満月の異常

満月の夜は明るい。それは本当に昼間のように明るいという形容が嘘じゃないように明るい。山並みの木々に色も分かるくらい明るいのだ。狼男になって気が変になるというのが分かるような気がするくらい。もちろん昼間のように明るいというのは言葉の綾だ。しかし夜は暗いという認識を改めなければならない程の明るさという意味で昼間のようなのだ。明るいけど昼間の明るさとはまるで違った冷たい明るさがその異常性が人の気の異常性を引き出すような感じがするのである。このまま出かけていってピクニックでもできそうな気がして来るのである。

テレビに捏造はつき物

テレビは全て捏造と言える。例えば市民グループが署名を市長に届けたなんて場合も手渡している所がニュース映像として流れるがあれも捏造ではないだろうがヤラセである。広い意味ではヤラセも捏造である。手渡した瞬間を捉えなかったのだからもう一度お願いしますというのはおかしいではないか。泥棒が盗みに入った瞬間を捉えられなかったからといって泥棒にもう一度現場で再現してくださいとお願いしますか。この手の映像を見るたびにテレビに合わせて演技する態度にむかつくのである。大統領と首相がにこやかに握手とか何々の代表が首相に抗議文手渡したとか絵作りの為にわざわざカメラの前で演技させるなんて過剰演出だ。プロなら実際の瞬間を捉えろよ。シルクロードのやらせだってテレビ局のそういう体質伝統が生んだものであり、それはテレビ創業時からのお決まりでは無かったのか。捏造やヤラセと言い方に問題があるというならショーであるプロレスである。お決まりなんだからテレビは事実を述べていないなんてお笑いだ。あれはそういうルールでやるショーなのだ。真面目に真剣勝負じゃないと言う方がどうにかしているのだ。捏造は撤回してテレビはプロレスだと言っておこう。

文学とは何なのか

別に文学でなくてもいいけど小説とか文章全般に言えることでこれまで誰も光を当ててこなかった事に光を当てるという事はあるだろう。でもそれだと単に空白域を埋めるという作業になってしまうが同じ所を指し示したってより高階領域を描いたり様々な視点があるだろう。現代美術がキャンバスから離れてしまったように現代文学がもう文章で表す事は何も無くなったのかどうかは知らん。もしかして現在の文学は行動で表現されるのかもしれず誰にも知られていない旅人がその表現者なのかもしれないしもしかして政治的実践活動がその体現者なのかもしれん。多分そんな事は今から100年200年位経たないと分からないのかもしれんけど。

日本という纏まりの良さ

一国がこんな話題に一斉に集中してしまうと言うのも可笑しいというか空恐ろしいと言うべきかそれこそ軍靴の響きが聞こえてきそうw。納豆騒動にしてもあんなもの信じないという人も巻き込んで話題の中心になってしまう所が日本的である、という私もブログで話題にしてるし。他の国だったらそんな事あったのという位話題というのは分散的多様性が確保されているものではないのか。やはりこの事態を回避するには一刻も早く道州制を導入して違う道州では同じ番組は流さないテレビも新聞も違う系列にして情報を意図的に分断する必要がありそうだ。何も情報を遮断するという事ではなくて道州ごとのオリジナルを創出しようという事である。こんな同様の形態を保っていては種の多様性を確保できず滅びる時は一斉に滅びるという単一種の運命から逃れる事ができないのだ。納豆を話題にしたら負けかなと思った人の勝ち。

不二家の件で賞味期限が注目されているが

ではどこかが賞味期限を1日延長すると公言して使用する会社が現れたらどうか。賞味期限はあくまで目安だから違法性はないだろう。なんと言っても本来廃棄され損失計上するものが商品になって利益を生むのだから利益構造に大きく影響しそうである。オープンに公表すれば何も問題にならないはずである。その分価格を下げて提供しているとなればもったいない精神にも合致して好評のうちに購買者に迎えられるのではないか。これがずるずると2日の3日もなし崩し的になってしまうのが厳禁なのでそれができないような物理的仕組みを作らなければならないのかもしれないけど、人は禁止的行動にはモチベーションを上げる事はできない。もっと大きな意味でムーブメント的意味合いの意気投合が必要である。まぁそこに何を見出せるのかが経営者の仕事っていうやつ?

不二家の発覚と「あるある大事典」の捏造

片やデータ捏造、片や賞味期限無視。しかし不二家は再建も危ぶまれているのにテレビ局の方はまたかという雰囲気。この社会的制裁の非対称性はどこからくるのか。規模の違いスケールの違い。食品製造会社と報道マスコミ会社との違い。しかしどちらが影響力があったかといえば「あるある大事典」であろう。不二家は面白おかしく伝えられているが実際の影響力は中堅的な洋菓子会社1社が製造を中止しても社会的影響は限定的である。まぁあるあるの方は納豆で体に害があるという事ではないので白インゲンよりマシと言えばマシなのだが多くの人が納豆が入手困難になったり工場がフル生産に入ったり各所で混乱を招いた。まぁ今回も厳重注意や番組中止程度でお茶を濁すのだろう。
 しかし今回の発覚が不二家においていい加減だった体制が注目されて厳格性というのが社会に問われていたのだがその見直し作業の中であるあるのデータ捏造が発見されたのであればまた日本の不思議をまざまざと見せられたわけである。というかこれでは風が吹くと桶屋が儲かると変わらん。

あなたは日本に近代がやって来たと勘違いしていませんか

近頃日本には中世が未だに居座っているのではないのかと思うことが度々ある。この物質主義の精神の病んだ今の日本に?と驚く人もいるかもしれないがそうなのである。昔の日本は思いやりがあって優しい人々ばかりだったという幻想に陥りそうになるがそんな事は無い。追いはぎ盗賊人攫い殺しは珍しい事ではなかったはずである。周りの風景は変わっても日本人の心情というのはそう変わっていないのではないのか。赤の他人を信じず、余所者を排斥することで村社会を守るという保守的空気。近代的法整備が為されても芯の部分では変わってない人間。思えば遠くに来たどころか一歩も踏み進んでいないのでは思わせる瞬間がある。私達は同じ所に踏みとどまりじっとしているのに周りの景色が過ぎて行ったのだ。自分では一歩も踏み出していないのに周りで勝手に色々な事が起きて流されていく。そこには進歩も進化も何もなくて周りに合わせている人格だけがある。未だに呪いや祟りを信じたり水信仰が生きていたり奢れる者は久しからずの世界観だったり科学の装いを身に纏っていながら中世の人間から何か優劣を競える部分があるのかと言われれば心もとない。人間なんか進化しないんだよという世界観を認めればそれはそうなんだけど。日本は未だに中世だというのは暴論だろうけど小手先の技術だけが進んだだけで人間性は何も進化しないというのは悲しい事実かもしれないというのはここだけの秘密。

夢と光芒の80年代

あの頃は確かに現実だったのに二度と戻れない日々。何も楽しい時でなかったのに夢だけを食って生きていた時代。何一つ実現しなかった夢。といっても何か具体的なそれがあったわけではないけれど。夢見る事に酔っていたみたいな。ネットラジオで80年代の音楽を聞いているとその頃の想いが甦ってくる。何かがあったわけではない。その頃の精神状態が風景と一緒になって甦ってくるだけ。ウォーターフロント、倉庫ギャラリー。何か新しい何かが始まるように見えて結局何も生み出せなかったような時代。何かを生み出したのかもしれないけれど私はそれを知らない。

テレビの力

テレビの力は絶大だよ。だからかつて社会主義の国々では全てテレビを押さえていた。だからテレビ局はできるだけ影響力を出すような番組を避け毒にも薬にもならないようものばかり流し続けてきた。しかし人が一斉に靡く様は麻薬のように人を狂わせる。してはいけないタブーはリークのように染み出してくるのです。そして時々捏造のような事件を起こす。それは繰り返されてきた歴史。

人工無能化する社会

事件や事故が起こると当事者を徹底的に叩く。なぜそうなるかというと通常は行ってはいけない行動が解禁されるから、つまり祭りなのだがこれが自動化されているからだろう。以前株取引でプログラム取引が市場の連鎖反応を引き起こすとして問題になった事があったが今は社会全体でそのような事が起きているのかもしれない。何かが持ち上げられれば情報は一斉にそこに集中して根掘り葉掘り掘り下げられる。一方問題が発生すればどんな些細な事も問題として糾弾される。これが誰にも止められなくてプログラムとして作動してしまう。一人ひとりが馬鹿馬鹿しいと思っているのに誰にも止められずに社会全体で動いてしまう。これを止めるには社会のシステムを解体しなければならない。もちろんそんな事はできないので問題点だけを取り除いて既存社会を改良しようとするのが筋だが今の所これを問題として明確化、名前をつけて分類化するような方向には進んで無いように思える。ではこの状態を良しとして放置しているのか。だれもこの複雑化した問題を直すなんて、恐ろしく巨大で複雑なスパゲッティプログラムのバグを修正するような事だから誰も触らぬ神に祟り無しを決め込んでいるのかどうか分からない。