本末転倒とか

 村上春樹が米国と日本のマラソン大会を比較して日本では役員の挨拶のようなどうでもいい事を優先して選手をないがしろにしているというような事を書いていた。スタートの3時間前に来てくれないと失格となると脅かされたりそんなに待っていたら体が冷えきってしまったりそのあいだ開会の挨拶を聞かされたり自分のスタートまで延々と待たされたりでモチベーションをうまく持っていく事ができない。選手の事より主催者側の都合しか考えてない大会にうんざりするような事。
 まったく日本とはそういう国だ。中身より外装を大事にしたり。米国だってないわけではないだろう。大統領はいろいろなセレモニーに出席して挨拶位するだろう。でもそれは求められてするものだろう。だれも求めてないのにマラソン大会に市長とかのつまらない話を聞きたくない。組織でも作戦があればブリーフィングで説明を聞くという事はある。それは必要だから。日本では必要も無い話が多すぎる。朝礼でどうだこうだ。何かの集まりでどうだこうだ。まったく今の仕事に関係ない事が話され、それを大事に聞けと求められる。
 一体どうしてこうなってしまったか。東洋の思想とか儒教とか年上父兄上司を敬う教えからそうなったのか。確かにアジアではそういう傾向がありそうだ。その中でも日本は独特に形式主義を発展させて来たともいえる。鎖国もそれを助長したかもしれず明治政府もまたまたそれを発展させたかもしれない。そういった実効を疎かにする形式重視は軍隊の非効率な命令系統により多大な犠牲をだした。敗戦と軍隊消滅と共にそれも消滅したかというとどうもそれも消えたように思えない。日本は敗戦でがらっと変わったはずなのにどうして。米国が民主主義を持ち込んだはずなのにどうして。
 それは民主主義は外装であって中身でない。民主主義という手続きを取りながらその心情は何も変わってない。日本の古来からの伝統を引き継いでいるってわけだ。占領されても魂は売らず。ご立派なこった。資本主義で効率優先になったのだから変わったのでは。しかし効率より優先するものにその国の特徴が出てるのかもしれない。米国だったら楽しさだったり。日本はそこで形式主義が顔を出す。つまらない、退屈な、無意味な、余計な、くだらないものが。
 しかしそれを人々がまったく持ってなかったらここまで残っていないだろう。本体だけでは寂しい箔がつかない正当性がない、そういう事から考えついて始められたものが続いているのかも。楽しいだけでは物足りない、そこに何かを期待してしまう国民性なのか。