みんなそこそこでいい

共存共栄が日本ほど蔓延している国はないかもしれない。イラクとの敗戦後の違いを見てもそれは感じる。もちろん米国の政策ミスというのもあるのだろうが。しかし現行政機関を温存するという手段はイラクでは不可能だったのかもしれない。そしたらスンニ派優先の組織は変わらずフセインの代わりにアメリカの傀儡政権が付くという形にしかならなかったかもしれない。
 日本でもそれなりのカリスマはいるだろうがみんな自らを弁える能力が備わされているような気がする。これも武家政治の名残か為政者の心境を無視して活動する事はできない。という意味でもそれを許す真に器が大きい政治家が存在しなかったのか、日本ではそれを許さない空気が民衆の間に生じてしまうのか。既存の秩序に従っていては大きな変革は望めない。しかし大きな混乱を経るのも確か。真の変化より秩序を重んじるのが日本だからそれを在民が選択するならそれに従うしかないのだ。そこそこの成功とそこそこの失敗で満足するしかないのだから日本から世界に何かを発信するなんて事は考えられない。つまりそこそこの生き方ぐらいしか発信できないだろう。そうやってみんな平和に暮らしていますというのも十分重要なメッセージだろうがしかし人々はそんなメッセージなんて求めていない。そんなのは日常の片隅で埋もれてしかるべきものなのだ。人々の夢は理想を求め絶えずそこへ近づこうとする。あらゆる犠牲を伴っても。ただ生きている、息をしているだけではイヤなんだ。生命の本能にはそういう希求が組み込まれている。