新水伝も科学的思考に捉われている

どうせ合ってるかどうか分からないならもっと発想の飛躍をすればいいのにと思ってしまう。水の妖精がいてそれで美しさを感じ取ってくれるのさと。陳腐で全然飛躍してない。で、なぜそういう解釈を取らないかというと誰もが科学的思考に染まっているという事を知っているから今更妖精を登場させたって端から信じないという事を知っているからである。神話も現代風に書き換えなければならないように論理も現代風でなければならないというだけだ。しかしそれこそが現代人の呪縛、自分で論理を築き上げてそこから出られなくなって身動きできなくなってしまっているのではないかという事である。
 まぁこの辺は迷信や風評と自由な発想のバランスと個々の人の重心の置きようなのかもしれない。で、科学的な考えと自由な発想は別だ、分離されるものと考えるのはどうなのか。自由な発想は文学のもの? そんな事はないだろう。 自由な発想は科学でも発揮される。でもそれは科学というルールを踏み越えてはならないという制限がつく。いやそのルールだって常に疑いの目で見ることが必要だろう。世界5分前仮説だって全面的に否定する事は不可能なのだから常に可能性を考慮に入れていなければダメではないか。バランスというとそれは個々の配慮だからそれを前提にしたら変な考えをばら撒くなという事に同意しなければならなくなる。自主管理組合宜しくネットの秩序を維持するのもいいけれど、今はそうやってネットの迷路に迷い込むというのがネットの醍醐味ではないのかとしか言えない。