ブログに現れる「私」という現象

端的に言って「私」が現れない文章はないのだろう。「私」が極力排除されたマニュアルや契約書だって書かれた時にこれで人に意味が通じるかという「私」による書き手の判断は入るだろう。そう極端な例でなくてもその文章の視点、何を題材にしてどう解釈するかなど直接「私」が書かれなくても「私」からの文章には変わりない。結局文章を書く作業とは「私」から離れられないし、ましてや他人の校正が入らないブログなどストレートな「私」以外の何者でもないだろう。結局どう書いても私、私、私。私から逃れるはずも無く、一つの単語さえそれが今のあなたの興味対象なのだなという事を知らしめてしまうのである。
 そういう事に気付いてしまうと何を書く事も虚しいような気がしてきて結局は自分を語りたいのだなという結論にいってしまう。世界情勢を語ってもそういう事に興味ある自分を表出させる事であり、どんなくだらない事を語ってもそこに自慢が見え隠れしてしまうのを防げない。結局は承認を得たいという欲望から無である事はできず、ブクマで禿同などあればギリギリ抵抗してもニヤリとしてしまうのが人間だろう。で、結局そういうのから無縁でありたいとすれば書く事を止めるしかないわけなのだろうけど。結局は他所で承認が得られればこんな事も止められるのだろうがつまり現状の社会に不満である所が書き込む動機であるわけでつまり異議申し立てというわけだがもちろんブログなど書いて社会が変わるわけもなく自己満足で終わるのは見え透いている。結局何らかのアクシデントを求めているのでありここで書いた事がきっかけで何かが変わる事を期待しているに過ぎない。だから何かのきっかけで思わぬブクマが付いてしまった時はアクシデントでありそこから何かが始まるかもしれないという淡い期待を抱いてしまう少女心のようなものではないのか。