デジタル化されると価値が無くなる

それは限りなく複製可能だからである。絵に価値があるのはオリジナルが一点しか無いところにある場合もある。版画はだから価値が下がる。その為それ以上版を重ねないよう元版を廃棄したりして数を制限したりする。いくらでもオリジナルと同じ複製が可能なデジタルの価値は可能な限り0に近づく。
 しかしここでは価値の再構築が必要なのだろう。デジタルでは正確に記録を残せる。何時何処でどのマシンにコピーされたとか、何回ダウンロードされたとか最小の1まで正確に分かる筈である。iPodなどの携帯機器でも何回再生したか記録に残っている。そういう機器もネットワーク化されそういう情報もネット上に集約されるだろう。するとその音楽が何回聞かれたとか正確に分かるのである。これは現代社会に置いては一番必要とされる情報だろう。今何が好まれ何が流行っているかがこれまでの曖昧な手間のかかる調査から最後の一の位まで瞬時に分かってしまうのである。全ての機器がデジタル化されればそれは可能。つまり著作権者が正確な数字で請求権を確保できるとも言える。しかしネットは匿名社会だから誰かは分からない。では誰に請求するのか。それを国に請求すると結局は税金で支払われる事になる。それは正しいのか。
 それよりも情報社会としては何に人気があってそれが手に取るように分かるようになるのだから市場経済としてはそのデータを利用するだろう。結局はそのコピーやダウンロードされた回数が重要な意味がある。それを月ごと週ごと日ごと時間ごとに集計し現在価値が査定される。それでどれ位の人を集められるか、どの位注目を集められるか。人気が見えればそれに金を出す人はいるわけで広告に利用したくなったり、広告を拒否すると価値が上がったり下がったりするわけで直接音楽や映画を売買しなくてもあらゆる場面で商業取引が様々な応用形態が生み出されるのではないのか。何々する権利や何々できる権利。二次三次利用の応用形態。それこそが自由に複製可能なデジタルの特性を生かした社会の在り様である。もう今までのビジネスモデルは崩壊した。新しい利権を開発してそれを利用していくべきなのだ。そこではデジタルの利点をフルに生かして様々な恩典を金に変えたりしてサービスを始めることが可能であるはずだ。