解釈という行為

人間何か現象が起これば解釈を行う性向がある。しかしその解釈も以前の解釈から成り立っており解釈の解釈に過ぎない。だから全ての解釈は親亀の上の小亀の上の孫亀のようなものである。親亀こけたら皆こけたの不安定な状態に過ぎず解釈とは怪しげで不確定なものに過ぎない。で私たちの認識も一定の時間しか持たない仮のものでしかない。この世に絶対的な解釈は存在せず、最高裁判所の判決もあなたの意見も本来同価値である。その差異は日本社会が決めた取りあえずのルール上のものでしかない。そうする事に皆さんが同意しているに過ぎない。え、同意した覚えが無い?それは残念。きっとあなたが子供のうちに大人たちが勝手に決めてしまったのだろう。酷い事をするものだ、心から同情する。しかし君が大人になったからにはそれに異議を申し立てる事はできるはず。同意見の人が国民の半数を超えれば法律を改正できるはずなのである。
 古来様々な人が様々な解釈を行ってきた。その叡智は読み切れないほど本としても残っている。けどそれも一つの解釈にしか過ぎない。そう考えてもいいしそう考えなくてもいいというものだ。まぁそういう事を考えて解釈自体の限界を知って無心の境地という考えもある。解釈というのは複雑系に舞い降りていく事でメタというのは単純系に駆け上がっていくことか。