日々平安で

浪人は通りすがりの侍に介錯をしてくれと頼む。頼まれた侍は何か頭がいっぱいのようで何も考えず請け負ってしまう。ここで浪人は焦る、それは予期せぬ行動だったからだ。元々切腹などするつもりは無かったのだ。腹が減ってどうしようもなくなってでもそこは武士の端くれ物乞いなどできるはずもなく窮余の策として切腹の真似事をして介錯をお願いでもすれば、またどうしてそのような経緯になったのかと身の上話でも聞いてくれて、困った境遇を聞けばあわよくば飯位にありつけるのではないかという読みがあったからである。てそこまで丁寧に書いてあるわけではないので勝手な読みなのだが。所が何も聞かずに刀を構えやがる。そりゃないだろうとどうして切腹するのかわけを聞かんのかと水を向けるが何かそれどころじゃ無いようで頭に入らない。で浪人が切腹はする気はないのだと分かるとすたすた行ってしまおうとする。仕方が無いので道を聞いたりしているうちに侍が財布がないとか言い出した。これは家に戻らなければならぬというのでそれなら旅は道連れという事で一緒についていく事になる。この落語のような展開から物語が進んでいくのだがここではこの部分だけに焦点を当てる事になる。
-
 で最初に戻って浪人は介錯してくれYesかNoかと求めた。それに対して侍はYesと。しかし浪人が欲しかった答えはYesでもNoでも無かった。自分の身の上話を聞いて欲しかったのである。もちろん話を聞いてもらうなんてどうでもいい事で本当の求める物は空腹を満たす事だった。でもそれを直接には要求できない。そこで介錯をお願いするという変化球を投げたのである。でなんでこんな事をくだくだと書いているかというと仕事ではYesかNoかというのを求められるわけである。でこのビジネスライクに通していくと上の話のようにならない。というか侍の方はまさにそのビジネスライクのように進めようとしたので浪人の方がビックリしてしまうのである。世間の常識ではそれはないだろう。シナリオ狂うよ勘弁してくれよ。このとき侍の方は憤っていて心此処にあらずだからそんな行動を取ってしまっていたのだがそんな事情は浪人は分からない。でそのまま何も考えずに行動してしまうと浪人はそのまま切腹するはめになってしまうかNoだったらあっさり過ぎ去ってしまって何も始まらない。いずれにしても物語はここで終わってしまうのである。でYesとNoだけでは人間の想いは置き去りにされてしまうし何の物語も始まらないという事を考えてみたのである。で現代資本社会の競争社会は人間を忙しくさせ常にYes,Noの判断を求められる。そこには物語が発生するいとまもなく虚無的な時間だけが去っていく。そこには心が生きていく空間がなくてデジタル的判断だけが求められる。面倒くさくなったので、それが無差別殺人の原因の一つだといきなり結びつけて終わりとする。