思考の有害性

考える事は罪なのです。
世界を良くしようと考えた結果が現在というわけではないだろう。そこは欲望が勝ってここに至ると考えるべきなのかもしれない。しかし善意でやった事も、小善は大悪に至り大善は非情に似たりとなりがちで要は浅はかというわけなんだろうけど大局を見極めてよくよく考えれば善を為せるのかというと甚だ疑問だ。
 そもそも考える事が有害ではないのかというのは知恵の実を手にして楽園を追われたアダムとイブにまつわりますが、そうそう機転が働く子供を戒める日本の商人の話もありました。つまり思考は力であり悪用してはならないという話にもなる。確かにコテの原理で大きな力を利用したり戦争に利用されてきた面をもって悪用してはいけないという事はできるが、そもそも思考は悪なのではないかという考えもあり得るわけである。核を平和利用だけに限定しましょうなんて何の説得力もないわけでそういう意味ではみんな現実主義である。
 それはレベルが低いからだという見方もあるがレベルが高ければ有用性しか見いだせないというのも違う気がする。邪悪になるな、に本当に意味があるのか。最高の知性は邪悪だとしても驚かない。何に対して邪悪なのかそれさえも分からない。思考と言っても運動に他ならないのだから究極的に邪悪もへったくれもないものだ。有害性が現れるのは限定した局面にしかない。全てが開かれたならばそもそも思考という現象も不可能かもしれない。