現在を目撃しているのは我々しかいない

今何が起きているのか。それは今の人しか書けないのです。後になってもう少しはっきり分かってからまとめればいいと考えるかもしれない。しかしそれが面白く脚色されたものという危惧は取り越し苦労でもないだろう。後になってしまうとどうしても細部は失われる。そこは想像力で補われてしまうのだ。そしてその時代という括りでもってあの時代はそういう時代だったとして何もかもそうするのが当然だったとばかりに時代性の中に終焉させてしまうのである。本当はそうじゃなかった、というのは後から見直しや再発見でよく現れるものである。行き過ぎた時代性の特色を求めすぎ誤解を与えてしまう。その方が面白いから。人はいつも面白さに飢えている。その方が金になるからというのもむしろそっちのほうが大きいか。
 まったく今の時代が百年後初めてネットが出現した時代としてどういう風に思われているなんて分かったもんじゃないね。けどこんなに記録が残っているのに?それはこれまでの時代と違うんでないの。あぁこの文章が百年後どう解釈されるのかというのが問題なのだ。