死は日常

死を大げさに捉える事が災いの始まり。では死は大事ではないのか。それなりにか。死を家から切り離してしまった事が死を非日常に追いやった。死は病院で、葬儀場でのものになった。今の住宅事情からいったらしょうがない。死は死だ。それ以上でもそれ以下でもない。死ぬってどういう事。それは誰にも答えられない。何の約束も断言もできない。それは決して答えが返って来ないもの。
日本の葬式は湿っぽくてやだねぇ。もっとパッとやろうよ。死は祝祭というのは黒人奴隷の葬式。これでやっと苦役から開放されて自由の身となれるから。でもそういう意味では人生と言う苦役から開放されるとも見れる。自分が死んだら臨終記念パーティというのもやってみたい。バカが死んだってよ。何か飲み食いできるそうだよ。行ってみるかぁ。皆様お忙しいところ記念パーティにご出席くださりありがとうございます。これより死者の遺言により餅撒きを行います。最高金額10万円の捻りがあるのでお楽しみに。というくらいの金持ちになりたい。というくらい見知らぬ人にも楽しんでもらいたい。まぁそんな派手な事しなくたって人知れずに死んでって何事もなく済んでしまうのが理想か。でも大概はそう甘くはない。様々な災難が降り掛かってくるのだ。まぁそれも後に残った人の楽しみ。といろいろ述べてきたが死が気軽に語れないのが最大の障壁かもしれない。