そうそう自動車、車、車

マスコミからネットに主役が移るかもしれないという時、その問題点が最近報じられるようにもなった。確かに究極のパーソナリゼーション社会は悪夢かもしれない。かといって何の変化も受け入れないという風はない。それはまだ実現していない未来だから変化させる事ができる。この事を考えた時やはり現代社会のインフラに思いを馳せないわけにいかない。車や鉄道や工業製品の発達は我々に便利な生活を齎したが失ったものは余りにも大きい。豊かな自然は失われ、二度と返ってこないものも多い。一度便利さを知ったら過去には戻れないといわれて来たけど、それを考えなければならない地点まで来てしまったのかもしれない。急進派は現代文明を全て否定する。もう少し自然を大切にしながらの発展もあったろうに、悲しいかな人間は失ってからしかその大事さに気付かない。


で、ネット、ネットさ。ネット社会は私達から何を奪おうとしているのか? プライバシー? プライバシーの概念も徹底的に変わるかもしれないとも言われている。YouTubeの隆盛は何を暗示しているのか。広告が瞬時も私達を離さず身にまとい付いて来てあなたの耳元でささやく。これはあなたにピッタリのピアスです、ドレスです、車です。その意思はもうあなたの自発的なものか広告のせいなのか区別もつかない。それでただでサービスが受けられるならいいじゃないか。これからの人がそう考えるなら死んでいく人間が何を心配しても始まらない。未来は未来の人の為に有り、現代の人にあるわけではなし。しかしその方向性には責任を持つ。未来からどうしてこんな世界にしてしまったの、と恨みを持たれない為に。


現代の人間は多少恨みを持つだろう。どうしてこんなに自然を破壊してしまったの。もう少し共存はできなかったのと。利便性に委ねていても、便利さは至上というわけではない。得るものと失うもの、それをじっくり吟味する。