某所で意識の問題が盛り上がっているが

人間以外でも高等哺乳類は意識があるだろうと思われている。ではどこから意識はあると言えるのかという問題になる。これは2001年の宇宙の旅のHALの問題でもあった。獲物を捕えるために判断する。これが意識の発達を促したように見えるがこれは予めプログラムされた自動機械とどう違うのか。そもそも我々は意識がある事を自明の理としているが本当に意識を持っているのか。これは意識があると錯覚しているに過ぎないのでは。仙人が蝶になった夢を見ていると自分が蝶になった夢を見ているのか蝶が人間になった夢を見ているのか分からなくなったという話にも通じるような。
 で、最初のどこから意識と呼んでいいものが現れるのかという問題。犬猫には意識があると言って良いと思われる。では魚類はどうか。しかし歴史的経緯からみても余り魚類に意識を見ることは少ないように思える。昆虫類になると殆ど自動機械のように扱う。では生物の発展段階によって高度化する課程で意識が現れると言っていいのだろうか。そうはっきり線引きできるのか。ここからは意識でここまでは自動機械という線はあるのか。その基準を誰が決めるのか。そもそも意識という存在が自分自身を規定することが可能なのか。
 昆虫も視覚で獲物を捉え判断して捕える。そう見ると意識があるように思える。それが人間とどう違うのか。それは人間はもっといろいろな事を思う。獲物を狙いながらも昨日の出来事を思い返して怒ったり笑ったり雑念が渦巻いてたりする。そういった高度な事ができないと意識と呼べないのか。しかしそれも細分化していけば個々は単純な自動判断の集まりに過ぎない。そう考えると自動判断の集積が意識と言うしかないような気がする。ならば意識も我々の錯覚ではないのかという所まで後一歩だ。意識というのを拡大解釈するならば原初の単細胞生物にも意識はあると言うしかないし、意識を厳密に見つめると錯覚でしかないと言うしかないような気がする。