人生の失敗も経てない、なぜなら一歩も踏み出していないから

まぁ、そうはいっても小さな失敗や挫折は幾千万。けれども大まかには平凡でありふれた人生。それほどの失敗がないのは踏み出していないからと判断するわけだ。今までの経験をどう見るか。そこで表現も変わってしまう。言葉は正確に書き表せないしそのズレが大きくなれば言葉は一人歩きして別な事を語ってしまう。厳密に正確性を追い求めても誰も顧みない文章ができあがるだけ。事実より読まれる文章が結局この世に残る事になる。大勢の読者を獲得する事が後世に残る手段だから。そうやって見ると歴史に残った書物の事実性もかなり疑わしくなってくる。それが残っているのは皆に受けたからでしょう。ごん狐が残っているのも事実の正確さではなく作家の創作性。何が受けるかを分かってる、つぼを押さえた展開。源氏物語が残っているのも創作性。物事の正確性ではない。そうなると昨今の報道もあってはならない事だけど歴史に残る事件というのは創作性の疑いを払拭できない。そこは常にこうだったら更に面白いのにという誘惑の挑戦を常に受ける場であり多くの人間がその誘惑に飲み込まれていった。
 その創作性は芸術なのだから嘘つきと無碍に却下する物ではないだろう。通常は芸術の領域まで昇華させたなどと言う。それが人間の罪だかなんだか知らんけどこうやって後世の人が誤解している事はごまんとあるわけでまぁ残らない事実より残る創作というか後世の人はそこから事実を掘り起こしていくしかない。まぁ兎に角こうやって人類は前に進む。