建築家の敗北

というと選挙に出て落選してしまった人を思い浮かべてしまうがここで言うのはその事ではない。建築家の誰でも当てはまる事ではないかと思っている。つまり建築家は計画を立てて設計、建設を行うものだができてしまった後は責任を持たないわけでもないが完成までがこれまでの仕事だったわけです。しかし例えば街全体をデザインするような都市計画の場合など、ただ意図したデザイン通りに建設すれば完了という従来のやり方に疑問が生じてきている。それというのもそうやってデザインされた街並みは奇麗にまとまったり広い空間あって機能的に設計されたりしている事が多いが実際に人が動いていると意図した通りにならなかったり無用の長物と化したりする事もある。また魅力的な街というのも近代的に設計されたものより自然発生的にできた街の方が良いときもある。特に都市計画が進まなかった日本では成功した事例が少ないように感じるが、単にそういうものに慣れていないだけなのだろうか。
 それとやはり都市計画のような大規模のようなものは実際に人が住んでみなければ分からない部分というのは多いのではないのか。できてしまったらやたら殺風景に感じたり冷え冷えとした非人間的な街に見えたり。やはり最初から全部決めないで第一段階を経てフィードバックしながら改修をして第二段階の設計を立てるみたいなやり方が必要ではないのか。そしてまたフィードバックをして第三段階の設計を立てるというのが理想だろう。これでは都市計画にならないというかもしれないが住んでみて初めて分かるというのはあるし建築家は神ではないのだから全てを見通す事は不可能だろうし、そういう意味でも都市計画が今イチ支持が得られない面もあるのではないのか。なんと言っても住んでいる人がいい街と思えなくては建築家の自己満足に終わってしまうわけだから時間がかかろうがそういう道を探っていくべきだろう。それでは思い通りのデザインが出来ないと思われるかもしれないが途中段階で支持が得られないものは完成しても支持は得られないのではないのか。
 アントニオ・ガウディのサンタグラナダ教会が今も建設中であることは本人が既に認められてしまったという側面があるにせよ、こんな教会いやだと思われたら建設は中止に追い込まれていたとしてもおかしくない。そのように大掛かりのものは何段階もの段階を経て時間をかけて造っていくべきものなのかもしれない。などと思ったわけである。