感情を逆撫でするという事がある

うっかりもあればわざともある。ブログ等でもそういう光景は見える。多くの反響があった記事は感情が反応した記事とも言える。人は理論は二の次だったりするもので理論より感情が優先する。この事は今騒がしい裁判の事例でも当てはまる。しかし感情と理論は別個のものだが裁判でも感情は有力な判断材料にされるから話はややこしい。ブログ等でも問題点が理屈と感情がない交ぜになっていい具合に香ばしくなってくるものである。しかしこの感情優先の判断は判断を誤せる元になりやすいので注意が必要。ケンカでもついかっとなって怒鳴ってしまうという事があるけれど冷静になって考えてみるとまるで理屈にあってないという事はよくある事で感情を手玉に取られて間違った結論を導かせられるという事もあるだろう。だから皆から一斉に叩かれていても正しい事を言っている場合はあるわけで、だからといってその場合自業自得と見るべきかこれは罠なのかと見るべきかとか思うわけであるが、そこを置いといてもそういう部分で判断を下してしまうのは良くないなと思うのである。
 じゃあ感情の部分を取り払って計算式を組み立てて論理的に答えを導き出してもそれで納得のいく答えが出るわけでもなく結局は総合的な判断を求められるというのは世の常でその場合その感情的な部分はどの程度考慮に入れなければ的確な判断にならないかというのが難しい部分なのかもしれない。しかしそうやって論理と感情を分離して数値化して総合判断できるかというと元の文脈から離れてしまってとても最初の問題点に到達できないという矛盾が生じてしまう。では最初に言った感情に左右されない判断なんて結局は不可能という事になってしまわないかという危惧が生じるのであるが、結局はそこを巧みに押さえた回答が支持を得るという事になるのだろうな。これだけ書いてこんな平凡な結論しか出なかったのが悔しい。