子供の絵は記号的

子供の絵というのは全然見た通りの絵ではない。それはむしろ記号的といっていいだろう。車や人は横または正面から見たところだし全ての絵はその言葉で説明されるところの特徴を備えている。顔には目が二つで鼻と口は一つ。だから横顔だって目は二つあったりすることもある。これは現実の映像が余りにも複雑でその通り書く事が困難だからだ。例えば現実は車だって正面や真横を向いてる事は少なくていつも斜めにずれた角度からの眺めとなる。それを正確に表そうとすると車の特徴が現せなくなり車に見えなくなってしまい慌てて真横や真正面からの絵柄に変更してしまう事になる。透明のガラスだってそのディティールは複雑でそれを描く事を断念して水色に塗リ潰してしまったりする。つまり有りのままに描く力量がないから説明的記号的絵柄になってしまうともいえる。しかし人間はこの有りのまま描くと言う事を長い歴史の間できなくて、つまりなんでもない風景を描くなんて芸当は写真が誕生するまでできなかったともいえる。それには高価な岩石を使った絵の具を粗末に扱う事はできず昔は教会が指定する題材しか描けなかったという制約もあったろうし時代が下っても美人画とかテーマとか様々な意味合いが求められてきた歴史がある。だいたい絵を描くという行為が何かを表したいという行為なので殺風景や何にも無いところを描くという動機に至らなかったのは当然である。もちろん写真だって当初は高価なものだったから特別な席でしか撮るという行為は行われなかったわけだが。もちろん今だって取るべき対象を見極めて撮ることが圧倒的に多いわけだし何も無いところを撮るというのも特別な意図がなければしない。