今は産業革命に匹敵する大変化だって

それが人類にとって良かった事なのかどうか地球温暖化が騒がれる昨今では疑問を呈する事態になってしまっている。産業革命が起こらなければ人口もこんなに爆発しなかったろうし自然破壊もこんなに進まず穏やかで美しい地球を保っていられたかもしれないと思うと人類の罪深さを思うばかりである。では近代化は起こらず中世のまま人類は留まっていられたかと言うとそういう思考実験ではノーと言っている。もっともそれは一人の作家の小説の話(パヴァーヌ)だが、しかし発明はその人がしなくても他の誰かがするといわれる位時代的な必然性、期が熟するという通念で語られたりする。人間の観念と技術の発展は別個でもなく互いに関連して発展していくのだろうが運動体としてこれだけの頭脳を抱えてしまった人間の行く末の運命はどのようなものか。産業革命は必然でありその先のネット革命も当然で温暖化問題も予定調なのか。全てはシナリオ通りでございます。人類は発展史の道のりを予定通りこなしているという事なのか。
 で産業革命が大いなる負の遺産を抱えたようにネット革命も人類に大いなる問題を残す事が予感されている。その萌芽は至る所に出ていて著作権問題や私的問題や人間性の在り様までこれまでの人間や社会の在り方まで再検討を迫るような事態まで起こりえると予想されている。
 で日本のあり方が今問われているのだが日本はどうして事態の対処に緩慢な対応になりがちなのか。今の生活の基本が形作られているのが殆ど江戸時代に完成されたものが未だに多い事はよく言われている。つまりその平和の長い時代、太平年間がどの近代国家より長く続いてしまったのが日本が平和ボケしてしまった要因ではないのかと思ったりもする。260年も安定した時代を築いた近代国家はまれに見る事態でその恩恵は多大なものがあるが同時に時代の変わり目に対処する感覚、運動神経を日本人から失わせてしまったのではないのか。確かに明治維新は一大変革であったろうが庶民の生活様式はそのまま江戸時代を引き継いでいたし今でもその心情の中核は江戸時代の頃を引きずっているのである。結局その長い安定した時代は人々に世の中はそう変わらないものお上が何とかしてくれるという慣習を身につけさせてしまった。庶民が困ったら最後はお上が何とかするのが当たり前という意識を身につけさせてしまった。結局その遺産が明治以降の近代国家に重くのしかかり、大衆にいつも江戸時代のほうがましだったという比較が想念され日本政府の呪縛となり続けた。
 で今ネットで行われてないサービスでネットとリアルを結ぶものとしたら個人のリアルの問題を解決するオークションのようなものではないか。例えば家の壁紙を張り替えたいが幾らでやってくれるかをオークションするとか物の売買でなく作業の売買であるとか。これだと実際に応対するのだからネット空間だけで収まる事ではない。現状では頼む方が検索してそういうサービスを探さなければならないが、そういう要望を上げて置けば業者の方でいくらでやりますとどんどん集まってくるようなシステムだったら探さなくて選ぶだけでいいのだから楽である。そういうサイトを立ち上げたら便利だろうが考えるだけでも相当なトラブルも予想される。だから現実には存在しないともいえる。もちろんネットにはトラブルも多いわけだが。ではその施工後までネットで報告されればその業者は信用されてうまくいくだろう。利用者の満足度までネットに上がればトラブルがあれば二度と仕事が来なくなるので作業者はやり直しでも応じるようになるだろう。ネットが監視装置としても機能するようにもなる。等という事を思った。まとまり無いけどこれが感想。
ウェブ時代をゆく梅田望夫
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