権威の批判はどうして楽しいのか

別に権威に限らないけど長い時間経ってくると有難くなってくる物ってけっこうある。その辺に転がっていた壺だって100年経ったら100万円になってしまったら、やはりそれはただの泥壺だと指摘してあげる事は大切である。本だって何かの拍子に誤読され多くの人から良書として持ち上げられ100回嫁なんて賛嘆されるようになってしまったら批判の一つも必要だろう。こういうバランス感覚が人類をかろうじてここまで生き延びさせてきた原動力だろう。何事も神格化される事は危険だしみんな同じ人間さ、そんなに凄い人がいても困る。病気の子供はいないんだ!と喜ぶように、立派な大人はいないんだ!とがっかりする事も人生においては貴重な経験である。
 というわけで今回話題騒然の希怪本「マックス・ヴェーバーの哀しみ」を読んだのだけど、内容は他で色々言われているのでここでは略。一つどこでも言われてない事を言ってみれば、最終章の愛されなかった子の叫びがなぜか自分はカフカの掟の門を呼び起こしてしまった。

あなたの言う通りに生きてきた。でもなぜ不幸なんだ? 僕の一生を返して欲しい。自分を犠牲にして、血の滲むような努力をして、僕はあなたの言う通りにやった。...

この言う通りにやった、自分で一歩を踏み出せなかった所が掟の門の前で佇み最後まで門の中に入れなかった男と重なる。そして男は死の間際門番からあの門はお前だけの為の門だったし、いつでもその門に入れた事を白状する。それはその男の無意識からの叫びだったのではなかろうか。
 しかしそれもまた人生。そうでなければいけない人生なんて実はない。あらゆる可能性がある世界なら人間はあらゆる可能性を試して見なければ気が済まない性分であるはずだ。こうした不幸を背負った生き証人(もう故人だけど)として人類の貴重な財産となったのである。