誰も神の目を逃れられない

この宇宙でどんな物質も重力の法則から逃れられないとか科学の法則が普遍的というのは実は神の目から逃れられないというメタファーではないのか。実は科学が発達したのは神という概念が確立していたからそれを受け入れる素地が社会にあったという事なのかもしれない。神が秩序を司っていたのだからそっくりそのままその制度を科学に移譲してもらうのが楽である。つまり西欧社会の科学が近代において急速に発展したのはキリスト教の遺産をそっくり譲り受けたからではないか。
 それだとまるでプロ倫ではないかと。プロテスタントの精神が近代資本主義の発展を遂げる素地を作り上げていたという奴。しかしそれだと日本はどうなるのかという状況もまた同じである。日本にプロテスタントの精神なんか無かったけど資本主義は発達したぞ、と同じようにキリスト教の基盤が無くても科学を受け入れたぞと。まぁ日本はそういう絶対的な存在はなくても江戸時代の260年余りを秩序ある社会生活を歩んで来た事が財産になっていたのだと思われる。そういう秩序を受け入れる素地があったから科学もまたすんなり受け入れられたのだろうと考えられるのである。ではあの規律が厳しいイスラム教はどうしてという疑問も起こるわけだがそれは誰かが解明してくれるだろう。
 で科学の世界で受け入れられない事というのは自然法則が成り立ったり成り立たなかったりする事だろう。誰がなんと言ったってこれだけは譲れない、科学の砦のようなものである。それを認めてしまったらどんな法則も成立不可能で論理も言うだけ無駄である。ん〜でもそれにも法則性があればいいのか。しかしそれを受け入れるとややこしくなるので根本的に基本原理が成立したりしなかったりする世界は認められないと言い切っていいと思う。けれどそういう世界観が量子力学を不完全な理論とする志向性なのではないのかと思うわけである。何しろ電子がそこにあるのかどうかが確率的にしか求められない世界というのは何かもの凄く頼りない自分達の足場が揺らいでいるような気にさせられるのではないだろうか。だから必死に量子力学を包括するような何か別な理論が登場して安心したいのではないかとも思ってしまう。それが超弦理論(スーパーストリング理論)に拘ってしまう理由の一つではないかと思ってしまう。
シュレーディンガーの猫もそうした量子力学のおかしさを多くの人々に知ってもらう為に考えられたものだろう。こんな変な理論がすんなり受け入れられたわけもないがさすがに一世紀経つんだからそんな事もないと思うけどそういうトラウマが奥底にあってなんかもっとスッキリしたいっていう気分を求めているっていうのは考えられないだろうか。