インターネットの発達とニセ科学批判

サイエンスの倫理とインターネットの精神かな。
誰もがネットで簡単に答えが得られてしまう時代。こういう時代はこれまで信じられて来た事も簡単に都市伝説の範疇に入れられてしまう。その結果残ったのは何の面白みも無い無味乾燥な世の中なのか。
 恥ずかしながらマスクメロンの模様は農家の人がナイフで一筋一筋丹精込めて作り込んだものだというのを結構最近まで信じ込んでいた。こういうのはネットが発達する前は切羽詰まった問題でもなく専門の農家でなければ知り得ないので何となく信じられて来たというのどかな時代が続いたし、それが今ではネット上に晒されている都市伝説として昭和の時代に思いを馳せる術となっている。
 こんな時代だからネット上では偽情報に対する監視が強い。これは新たな相互監視の世界ともなった。誰が偽情報を流しているか、それが安易な正義感と結びついて批判や炎上の元となっている。あるいは隔離や気印認定という新たな排他社会を生んでいる。確かに信頼が保たれないネット空間で偽情報が蔓延する姿は耐えられない物があるだろう。しかし本当に偽情報がネットを覆ってしまうというのも余り考えられない。それは偽情報を叩く批判や炎上の為でなく人々の良識が働いているからではないか、というのは楽天家過ぎるか。確かに少ない人間でも偽情報に振り回されてしまうのは何かの損失なのかもしれない。しかし何が偽情報かという事を考えるとそのレイヤーを含めてかなり複雑な問題を抱えているとい言えそう。一つの人類史が構築できるほど深いテーマだろう。
 昨今騒がれている地球温暖化だってこのテーマから逃れられない。究極な事を言ってしまえば偽情報は存在しない。情報は情報であり全ては等価値だ。全てが取引材料になりお笑いブームも経済的側面から分析される。政府の方針も偽情報に踊らされているという事は過去にあったしこれからもあり続ける。だから水から電気も常温核融合もこの厳しい時代に現れて来るのはちょっとした希望なのかもしれない。人間はそう簡単に常識に屈服しないぜ。と同時に増々この手の新たな発見と言われる物は増えていくのかもしれない。それはネットによって増々今まで光が当てられて来なかった所に光が当てられるということもあるかもしれないから。
 そんな事を考えながら日常を振り返ってみればまだまだ日頃信じている誤りや間違った理解というのはありそうである。例えばおならが出易いのは食べ物と一緒に空気を飲み込むからだというのが結構流布しているが胃の中が大気圧以上に高くなるとも思えずあってもすぐゲップとして出ちまうだろうと考えるとそれはちょっと違うんでないのと思うのである。
 あなたの周りにある百八つ間違いとかなんかできそうであるが面倒なのでやらない。そういうのもネットにかかればあっという間に駆逐されてしまうのか。いやいや間違いはもっともっとしぶとく人類と共存していくだろうか。