トランスレーターとしての聖書

日本はどうして英語が苦手という時、聖書の存在が上げられるのではないか。共通基盤としての聖書の存在は大きいのでは。キリスト教文化圏では有名なエピソードは素で覚えているものだろう。それを外国語でどう言うのだろうと思った時最初から意味は分かっている外国語の文章というのが存在することになる。個々の単語の意味が分からなくてもその文章はそういう意味を持っているんだと分かっている。その中で個々の単語の解読がされていくのである。不明な単語も複数のエピソードの中で現れてくることで意味了解されていく。欧州では聖書は各国語版に翻訳されてきたし同じ物語世界を共有できた事の意味は相互理解へ大きく影響したはずだ。世界で最も出版された本としての聖書の影響力はやはり大きい。でキリスト教は初めに聖書ありきの宗教だから聖書がないと始まらない。だから日本が英語が出来ないのは気にすることはないのだ。日本は何だかんだ言っても仏教界なんだよ。論理的基盤が大きく違うのだ。最初がズルなんだよ。