テレビと有名人と無差別殺人と承認欲求

昔から有名人というのはいたが現代ほど影響力が大きくなっている時代はないのかもしれない。売れっ子は増々売れっ子になり毎日何時間もテレビに出る事になる。もちろんそういう人はもはや個人という存在でなく公人としての役割を期待されているのだろうしそれが良いという事ではないだろうとも思う。しかしそこで人は我彼の違いに思いを馳せるかもしれない。そういう日本中から知れ渡っている人と誰にも知られていないせいぜい家族と幾人かの知人だけしか知る事がないこの差はどこから来るのだろう。
 昨日タモリの弔辞が話題になりましたがその中でもし赤塚不二夫が、では、いなかったらタモリは無名で終わったかもしれない。いや彼はどっちみち誰かに発見される才能があったともいえますがそんな事も思います。で誰にも見いだされない自分が在ると。でそういう才能も無い人間の承認欲求として無差別殺人という究極の選択がある。そういうのは認められないというのは社会の都合だ。それじゃ社会に具合が悪いてんで排除圧力が生じるだけの話である。それを理屈をこねて悪い許せんと攻撃する。それが社会の生存本能的反応である。一方で知られ過ぎている人間と全く知られない人間がいる。しかしこの人に知られたい欲求というのはどうしてこんなに高まっているのだろう。もちろんテレビは無関係でない。テレビに出れば忽ち有名人だから。テレビに何気に映ればみんな必死に映ろうとしたり手を振ったりする、それが自然な反応だ。人は誰でも誰かに認められたいという欲求がある。それが満たされない人がテレビにその願いを満たして欲しいということもあるかも。不遇な境遇にあれば余計その承認欲求はあるかもしれない。