日本のオリンピックの姿勢は間違っているのでは

最近は間違いなんてこの世に無いのだなと思い始めているのでこういう言い方はおかしいのだけれど、もうそういう参加意識は時代的にどうなのかと思い始めている。アメリカなんかに顕著だけど参加するのはあくまで個人であってその個人の集まりが集団を為すのであって、なのに日本は集団が個人を徴収しているという図式が抜けない。まぁそれも文化の違いで済ましてしまう事も多いけど伝統なんて思っている以上に長く続いているものでもない。昔からあるように思えて十年二十年前から始まったなんて言うのも結構ある。昔からあったのも途絶えてもう何も分からなくなってから一から復活というのも多いし。それでもそういった集団心理を形成してしまうのは日本が適度に小さく海に囲まれているというのが今でも大きいのか。これは絶えず今も影響を与えているのだろう。だから古からの伝統というより地形から現れる構造的現象なのかもしれない。じゃあ仕方がないという事になってしまうがそれでも変化が現れているのが昨今の事情ではないか。誰も日本だけという活動に縛られないし全てのルールが国際標準が求められるようになってくる。日本だけの特別ルールはなしよという現象である。それが文化破壊だという声もあるが世界がまだそういう事態を経験して来なかっただけでそれが人類史の帰結になるかもしれないし。それがグローバル化の視点であるが、まぁそこが今時代の攻防の真っ最中なので結果論になるまで時を待たなければならないのかもしれない。
 個人と団体の位置づけがどうなるのかという問題であるがなんか日本は守勢に回っている感じだ全てにおいて。経済が元気ないのと密接に関係しているような気もするが個が現れなければ団体の輝きもないのに、個を無用な圧力が打ち消そうとする、というか降りられない縛りが個の力を奪っていくように見えるのがなんだかな。ということでいつでも降りられるスペース作っておくのが日本の課題だ。