予算というのは無駄が多いな

たいして良い案が無いのに恒例だからというだけで予算が付き支払われる。だから急に良い案が思い立ったからといって予算を付ける事ができない。こうしていつも予算はくだらない事に使われ、本当に望む事には中々使われない。こうして予算は全国で殆ど使われない施設やら無駄な事に使われていくのである。だからもう予算を付けるというやり方を止めればいい。常に案を集めて良ければ採用、良い案がなければ予算はプールさせて貯めておき基金にして○○ファンドに投資しておけば良い。こうして定時的な支払いを止めていつも臨時的な支払いにする。毎年恒例の予算なんて止めてしまって0ベースで案を募り支持を得られれば通るようにする。そもそも毎年同じ予算を使い切るというのが無駄遣いの汚染源だろう。一切の恒例を認めなければ前年の予算を使い切らなかったから本年の予算を減らすみたいな弊害は無くなるだろうし。予算を使い切らず基金に回せば回すほどいい金の使い方という風潮になれば無駄遣いも減るだろうし。

面白いって何だろう、いい作品って何だろう

結局いい悪いがハッキリ分からないから文学賞なんてのが求められるのか。売れる作品=いいものだったら賞なんかいらないし、自分がいいと思うものがいいと思えばこれまた賞はいらない。そこまで思える人は少数派で影響力は少なくなったとはいえまだまだそういう指標に頼るという部分はあるのだろう。まぁ職人的部分は数をこなさないと出来ない所があるからそういう部分ではなくならないだろうけど。つまらない文を読む人はいない。そうだろうか? もう分かっている内容を読む人はいない。しかしまったく分からない内容も読む人はいない。
活字中毒R。「結末ナシ」の小説は許されるのか?

米国FDAとBSE

米国食品医薬局(FDA)といえば泣く子も黙る、日本もすぐ右へ倣えするほどの影響力がある機関である。多分。薬害エイズの時もFDAが危険を公表していながら日本は社会的影響が大き過ぎて対処が遅れた過去があったのではないか。それほどの決断を下すFDABSEには判断が鈍るのはなぜなのだろうと思った。FDAが何も言わないならやはり安全なのかと思ってしまう程であるがやはりその甘さには他の理由があるとしか思えない。それは米国にとって牛肉は日本にとっての米のような存在なのだろう。それなしでは国の存在が考えられない程の存在。建国の歴史から西部劇に登場するカウボーイ。米国の歴史は西部劇といってもいいくらいだから。言うならば牛肉が米国を作ったと言ってもいいのかもしれない。そんな牛肉だからアメリカ人の中で優先順序が狂ってしまい、さすがのFDAも手が出せないと。
 これを日本に置き換えて見ると米を食べる事で発病する病気が僅かの確率で確認された時それでも日本人は米を平気で食べ続けるかもしれないということか。幸い日本の米は輸出される事は殆どないので国際的な影響は殆ど出ない。しかし日本人だけがリスクを背負うという可能性はあるわけだ。輸出されない食品というのはそういう意味でも世界から安全を確認されないという構造になる。

死を考えれば浮き世の事と楽になれるのか

ガンで余命1年と宣告されたらどうするか。この世の悩みも無くなるか。かえって周りの人達を思い心配になるか。死ぬ事を考えれば何でもできる? 死ぬ事も考えても何も変わらない。自分の無力さを身にしみて感じるだけ? きれいさっぱりいなくなる。それが望みというのもあるな。少なくても将来の希望なんてわけ分からないものから開放される。