と思ったら

少女が無垢な存在だなんて解説の受け売り過ぎたな。キリストの像をヘリで自分の下にぶら下げながら女を軟派するという初めから挑戦的なこの映画。これを1960年にやったわけだから欧米社会はぶっ飛んだわな。少女は年少な男の子を使いながら現実的に生きている存在。彼女も都会へ出る事を夢見る少女であり、マルチェロへの眼差しは憧れだろう。女優なんか夢見ているならばそれはまたマルチェロと同じ事。彼女は昔の作家を夢見た頃のマルチェロを映し、また彼女もローマへやって来るのだろう。最後の少女の微笑みはそれを暗示させるものであり、それこそが大都会ローマのエンジンを回すエネルギー源。これは一人の男の希望から挫折を描いたものでもあり、また新たな希望をもつ少女の登場によって一つのサイクルを描いているわけでもある。永遠に終わらない都市の欲望。ローマよ永遠なれ、なんてね。