嘘と本当の物語

どうして嘘や間違った理論がいけないのか。それは一つには人類全体が間違った道を歩んで絶滅する、または衰退する事を恐れての事か。地球環境的にはそっちの方がいいという見方もできるが人間的観点からはそこに着地する事は難しい。生物種としての生存の本能が正しいと思われる道を模索するだろう。人間の進化はそこに定められていると言ってもいいかもしれない。結局生物種としての繁殖が本能として働くので環境問題もいかに人間が生き残れるかの戦略でしかない。つまり欲望の結果なので決して地球のためを思って行動しているわけではない。
 進化の袋小路に入ってしまわないか、まぁどんな道を通ったって何のアクシデントがあって滅んでしまうか判らないが。そういった間違った道というのは結果論かもしれないが最近の日本では血液製剤エイズ感染時の対処だったり狂牛病発生時の日本の対処の仕方はあれで良かったのかだったりするわけだ。ステロイド禍なども医療関係者にも正しい知識が行き渡っていたのか疑問だ。
 で、人々が高い常識を備えていればそういった災厄は回避できるというのが専門家が啓蒙をする動機になる。しかしあらゆる事態に備えるにはかなり高度な専門知識を備えねばならなくなるだろう。そういう高度教育社会というのも一つの理想かもしれないが現実性にも乏しい。何の為に専門家がいるのか。そういった間違った危機に専門家が警鐘を鳴らすのが義務だろう。で今の偽科学論争も位置づけられる。しかし今の世の中この専門家のいう事の信憑性も疑われる。誰が正しい専門家かという事もある。そもそも専門家が社会的に発言力を持っているならば間違った選択をしないのではないかと見られる場面もある。しかし実際の決定には権力者の利益誘導によって行われるので専門家の意見は無視される。
 で、ルサンチマンのようにテレビで吠える専門家が登場して反権力としてお茶の間を賑わして視聴率を取ってCMとって企業から金を貰うというのが現在の社会の仕組みである。それがグーグルを始めとするネット新興企業が脅かすというのが現在の状況である。ネットは新たな嘘を生み出すとして今までマスメディアという一定の管理下に置かれていたものがネットによって無秩序な噂やデマの出所とならないかという危惧もあるしそれは一定の監視勢力で収拾するとも言われている。結局はコミュニケーションという手段を選んだ時生じた負と正の面なので仕方がないのかもしれない。嘘を全く放逐したいと思ったら話す事を諦めなければならないというのが究極の答えだ。