ドキュメンタリーの限界というのを考える

例えば素人が街でカメラを回しても何のメッセージも浮き上がって来ないわけですが、プロが回せばそれなりの問題点を捉えそれを告発するようなストーリーを練り上げてしまう事ができる場合もありそれが良い事、プロの技と賞賛されたりするわけです。しかしそれが現実を映していないとしたらそれはねつ造とされても致し方ない所です。ならば何もメッセージ性を持たない素人のカメラの方が素晴らしいものではないのか。しかしそんな何のメッセージ性がない映像が人々の人気を得られるはずもなく、ストーリーを求めて西東、雨に打たれて三千里が正しいカメラマンのあり方というわけです。立体物をぐるっと回って一番特徴を出してる面がいい映像というわけですがそれはその立体の一面でしかありません。その一面だけを取り上げて騒いでも全体を捉える事はできない。何もない平凡なアングルも重要度では実は変わらないという見方もある。では何が良くて悪いかなんて誰にも決められない純粋客観主義も否定されている。主観がない映像なんて何の意味があるんだというわけ。しかしそれとストーリーを無理矢理見つけるとは違うものだ。主観でありながら嘘にならない配慮というのは求められるはず。人に見せる時の限界というのがそこには現れるのかもしれない。