世の中おかしいとか人の情が無くなったとか

何を世迷言いってんだ。世の中変わった事が起こる、驚く。そしたら社会の敗退だ。惰眠を貪り続けた報いである。社会はあらゆる事を想定して準備しているべき。よしんばインフラが整っていなくたって想定できる分析界があってしかるべきなのだ。それを用意できないのが社会の不備なのである。思想界も文学もまるで役に立たない。その辺にいる普通の人が時々起こす事件に付いて行けなくて後追いしているのが現状だ。
 とにかく社会が驚いたら社会の負けなのだ。世の中を驚かしたらそれはその人の勝ち。当人が自覚しないで行ってしまう行動もあるだろうがその場合はその現象を分析できなければ社会の責任。確信犯ならその人の創造力の勝利である。文学も評者に媚を売っているようでは終わりである。もし文学的でありたいとしたらそれは現代社会において禁書扱いされる事が最高の名誉であるはず。現代は表現の自由ということで文学表現を直接禁止する法律はない。しかし偶に別な理由で議論を巻き起こすものもある。最近ではバトルロワイヤルとか完全自殺マニュアルとか。
 誰も社会をうまく説明できない。それは社会が生きているから絶えず変わり続けるから。道徳がないと言いながら誰も現代にあった道徳を用意できない。道徳が大事ってそれはどこにあるの。今更孔子とか教育勅語とか持ってくるのかよ。時代は21世紀なのに。もちろん古いものが役に立たないとは言わないけれどせめて見掛けぐらい現代の装いをつける労をとってもいいんじゃないか。それもしない社会だから先生達は迷って「水からの伝言」を道徳として持ってきてしまう事になる。これこそ21世紀の道徳だってね。社会のインフラが整備されていないからである、教育というインフラを。
 世の中を驚かせ。大人を唖然とさせろ。それだけが勝利の条件。焚書こそが書物の栄誉。みんながテレビに媚を売って成功だけを求めるなんて何て気持ち悪くて平板な世の中だ。