寝ている間に四半世紀が経ってしまった

という気がしないでもない。じゃあ何から寝ていたのだろう。その間も息をして寝起きして仕事をしていたはずなのにやはり何処かの部分で寝ていた感があったのを禁じ得ない。では何が私を目覚めさせたのか。それがブログ等による情報の奔流だとしたら格好のネットによるプラス効果として取り上げられるかもしれないけど、まだ何も始まってないし何の成果もあげてないし、それどころか本人がそう思っているだけで実際には何の変化も起こってないのかもしれずただの浮かれポンチかも過ぎず仮定の事をその先まで細部を語っても前提が崩れれば全て架空の話になってしまうという事を戒めよ。
で、ネットに覚醒効果があるのかという問題。目覚めよ、私達は騙されていた。今こそ真の情報に触れ真実に目覚めるときがやって来たのだ、というような新興宗教がネットによって巻き起こるのか。というよりそうなると反体制を目指す政治勢力という位置づけになろう。
 ところでブログ等書くのなら反体制でなきゃ意味なんかないでしょ。全否定しないまでも部分否定は世の中に不満があるなら誰でもあるわけでそこを書かなくては何の為のネットか分かりはしない。だからといってそこに規定される理由もないわけで好きな事を書けよというのは言うまでもない。その上でもっと不満をあげよう、日常のおかしいと思う事を俎上にのせよう。時流に流されて聞き流していないのか。
 日本では言い争いが起こる事も災難として捉えてきたのだから論争や議論が発達するわけもない。平安朝時代は変異が起こると(蛇の出現や鹿の出現や犬が尊き場所で糞などをしたら)陰陽師が占って将来の災厄を予言したらしいがその災厄のなかに言い争いも含まれていた。そういう日本だったわけだからネットが日本に及ぼした影響というのは歴史的事件と言っても過言でもなく、日本そのものの在り方が変わってしまう可能性もあるわけだ。議論はくだらない事として戒められてきた伝統があるのだ。もちろんそれにも良い所はあって言ってもしょうがない立場のものが無駄に口論を交じわしてもリソースの無駄という側面もあったろう。それは役割がハッキリしていた時代にはうまく機能していた。しかし現在はそれほど役割が明確になっているわけではない。良いアイデアがあれば誰でも提案を求められる時代でもある。
 で日本でブログの発信数が異常に高いという事も単に日記の文化があったというだけではなく、やはり発言が抑えられていたという側面があったという事を認めなければならないだろう。この発言が抑えられていたというのは水俣病などの公害問題なども個人は公的な事に口出ししないという暗黙の了解が日本を覆ていたという事と無縁ではないだろう。でもこれはまだ始まったばかりでこれからも紆余曲折、試行錯誤を経て個人の発信という情報化時代が進んで行くのかもしれない。