書かれる前から存在する書物、映画

それは架空の書物である。それはミッシングリングと言ってもいいかもしれない。当然存在してしかるべき書物であって実際に存在するかどうかは問題でないというもの。実際書かれたかも知れないが紛失した可能性だってある。
 たとえば「ごんぎつね」なんてそういう話ではないか。どうしてごんぎつねは死ななければならなかったのか。その方が泣けるし感動できるからである。最後にごんぎつねが家に作物を持って来ている所を目撃されてお前が持って来てくれたのかと誤解も解けてごんぎつねと兵十が泣きながら抱き合って喜んだというハッピーエンドも中々いいかも知れないが原作者は感動が足りないとしてごんぎつねを死に追いやった。そんな感じでみてみると見ていないのに言っちゃあ何だが、世界の中心でとか最近のやたら感動と謳う映画もみんなごんぎつねのバリエーションにしか見えない。でそこから類推を進めて行くと将来誕生するであろう書物や社会も言及する事ができるという事になる。でそういう存在しない書物の批評や要約を小説にするというのが存在する。そういった包囲網に囲まれているのが現代人でお前の考えている事くらい既出であるという観念に常に悩まされる事になる。でオレなんて存在価値ねぇという観念に押しつぶされそうになる。お前なんて既出だ。ただの劣化コピーに過ぎぬ。そういう病。