おかしい事をおかしいと問題提起して何でも厳密に適用したいったら

2006-03-04
タバコの禁煙スペース、タイムの拡大。昔は飲酒運転でさえも取り締まりは大らかだったではないか。これは不可逆性で一旦厳しくなると緩くなる事はない。それとももっともっと時間が経てば、ある一定の線を越えることでその弊害に気づき全て自己責任に任せて規制撤廃という転換点を向かえるだろうか。

映画『ホテル・ルワンダ』主人公の願い

http://www.peacebuilders.jp/symp11.html

 昨年、私はダルフールに行き、94年のルワンダと同じ事が起こっているのを見た。本当につらかったのはその帰りに飛行機でニュースを見たとき。世界のリーダーたちがユダヤ人のホロコースト(終了)60周年でアウシュビッツに集まり、「ネバー・アゲイン」と繰り返していた。しかし、私は今起こっているジェノサイドの現場から帰ってきたところだったのだ。みなさん、これを契機に認識を改めてください。私のメッセージは、私達の「メッセージ」を訴えるメッセンジャーになっていただきたい、ということだ。

「ネバー・アゲイン」を口で唱えながら何もしない世界のリーダーたち

映画を見ない人がいう批判

2006-03-04
ホテル・ルワンダ」なんか見ないな。これだけ話題にされると見た気になってしまうよ。それに見た人の感想だと割とハッキリした単純な映画みたいじゃないか、ハリウッド的な。これこれこうだからこうしなければならないよ、こうしたほうがいいよって言われましても、そういう映画に興味なし。一体それで何が伝わるのだ。「ホテル・ルワンダ」を見ればみんなポールさんみたいになれて虐殺なんか地球上から無くなるんだと言いたいのだろうか。そうしたら今頃地球は数多の感動的な映画があったんだから平和すぎて人口増加し過ぎて一旦滅んで新しい文明に移行しているかも知れない。言葉で説明できるようなものなら映画はいらない。ゆえにパンフレット等邪道だ。映画を見る時はパンフレット等見てはいけないのだ。自分の目で見て自分の頭で考えなければならない。それで監督が何を現そうとしたのか見極めなければ。外野の意見も評論家の意見も参考にするのはハリウッド映画の50歩100歩の出来位だろう。そんなの見るからステレオタイプの見方を強制されて憤るなんてエネルギーの無駄。映画がある人の生き方を描いたならそれに感動するのは間違いではない。しかしそれを教訓にしようなどと考えるからおかしくなっていく。それはその感動を起こした何かの中にあって教訓の中には無いのだ。それを言葉にした時からズレが生じる。言葉にできるならわざわざ映像にしないのだ。感動はそのまま受け取って解釈してはならない。それが本当にわかるのは10年後や20年後かもしれないのだ。安易に答えを求めても単純な分かりきった陳腐な答えしか出て来ない。

デイトレーダー的ブロガー

ほんのちょっとだけブックマークでデイトレーダー的な気分を味わった(といってもデイトレーダーがどんなものか知らないけど)。日々こうした波を読んでエントリを繰り返すブロガーがいるのかどうかは知らない。まぁブックマークで上位を狙うゲームとすればそれは面白い事だろう。まるで会社を見ずに株価の動きだけで売り買いを仕掛けるように、エントリの中身を考えずにどのエントリが上位に伸びるか予想してリンクを貼ったりしてアクセスを便乗する。で、当然エントリの内容で勝負を狙う正統派ブロガーからは非難されるわけだ。彼奴らはブロガーじゃない、市場をつまみ食いしてアクセスを横取りする盗人野郎だと。ブロガーの市場取引があったらそんな感じとも思えるが、それはブックマークで既に起きてる現実だった。

ルワンダから考えるのは国際社会が機能しないという現実

2006-03-04
ルワンダの悲劇から何か教訓めいたものを引き出すなら国際社会は二度とこのような殺戮を許してはならないと考えるはず。しかしわずか10年でダルフール危機のような大量殺戮が起こってしまった。まるで冗談のように繰り返される悲劇こそアフリカの現状と国際社会がパワーゲームの舞台で正常に機能していない事の証明だ。虐殺がなぜ起こるか解明するより先になぜ現在の危機に目を向けない。火事が目の前で起こっているのに消火しようとしないでなぜこの火事が起こったかを考えるなんて。言葉が空虚である事を証明したいのか、言葉への冒涜だ。ルワンダの悲劇を知ったなら最重要課題は再び似たような事を起こさない事であり、それなら現在も続いているダルフール危機を止めさせる事。スーダン政府に国際社会は圧力をかける事。ダルフール危機を知る事。何か良く分からなくてもダルフールで人が死んでいる事は良くない事だと表明する事だ。なぜそれが他の悲劇と区別されるのか? それはルワンダ以後をもっとも象徴する出来事だからだ。国際社会はこの出来事にどう振る舞ったか歴史に問われる事になる。もうかなり手遅れなのだけど。これ以上の被害を拡大させない為に。今出来る事。

面倒くさいを厭わない情熱はどこから出てくる

確かに面倒くさいとなれば大半の問題は終わるかもしれない。このブログだって何を好き好んで人のリンクを引っ張ってきたり話題に飛び込んだりしているのだろう。そんな面倒な事は止めようぜ、てなればブログの終焉。で、そうならないのは退屈、何か面白い事はないのかという好奇心、世界への関心か。現状不満や何か変わればいいという漠然とした思い。揉めてるうちがエネルギーの充実。それが無くなればブログも消滅。しかし余りにも込み入った迷路に入り込んでしまったら面倒くさいと投げる意気も正常な感覚には必要でしょう。