嫌な事は事の大小はともかく生きてる限り起こる事

これも税金のようなものか。生存税。誰も逃れる事もできない。あまり怒っても自分が損するだけなので適当にあしらうしかない。何か鬱憤ばらしに仕返ししてやろうなんて思うと余計エネルギーを使うもので馬鹿らしいものだ。こういうのとどれくらい平気で付き合っていけるかというのも少しは身につけないと長生きできない。

結局は同じ

AかBかの選択肢でも結局は同じという事はあるかもしれない。本人に取っては天の地の開きがあっても長い目でみれば合計で同じとか。朝三暮四の故事のように朝三つ暮れ四つでは不満だったのに朝四つ暮れ三つにしたら猿は喜んだという。全てがそうではないが後から振り返るとそういう事ってよくある事だ。けれど先が見通せない人間に取っては取り分を早く手に入れる事はまったく無駄というわけでもない。早く使ってしまって後悔ということもあるけど。

受け身であること

受け身である事は従来余り良い事とされてこなかった。何事も積極的に能動的であることが善というような風潮が吹き捲くって肩身の狭い思いをした事がある。しかし柳に風とか、馬耳東風とか、ん、これは違うか、言われてしなやかに強く生きていく様を描く事もある。積極的て押し付けがましくてなんかいやなんだな。受け身である事の方がクールでかっこいいというのも漠然とはあるけれどあくせくしたくないというのもあるけれど、まぁそういうことだ。受け身である事は不当に落とし込まれてきたという歴史の中でその当然の権利の回復を求めるものである。

なんでリアリティを感じられないのか

それは全てを他者に委ねてしまっているからではないのか。全ての物は私の知らない工場で作られたりしたものばかりだ。それがどういう流通経路で手元まで来たのかも知らず自分が住んでいる所も誰か作っている人を知るわけでもない。もちろん昔だってそういう事はあったろうが今はそういう身元不明の物が余りにも増え過ぎてそれが当たり前になってしまった世界に住んでいる。私達はこれは誰々が作ったものというのをどれだけ持っているだろうか。どこか知らない人が知らない所で作ったもの。それがサービスとしてきちんとした製品となって目の前にいきなり現れてくる。それが当然として難なく受け入れている現実。そこには何の痕跡も無く苦楽も読み取れずただ然としてある。それが工業化社会だろう。テクノロジーがリアリティを遠ざけているともいえる。この材質はどうやって作るのだろう、どうやってできるのだろう。それは普段の生活からかけ離れた想像力がなければ想像もできないものだろう。昔のように見て分かるというものでもない。そりゃどっかの工場で作ったというのは分かるだろうが具体的なイメージは不可能だろう。私達が普段伺い知らない行程を経て出来上がってくる製品たち。その中で自分の役割を想定するのは多くの場合困難である。こうやって自分は社会の中で宙ぶらりんになってしまう。

タバコについて

タバコは紙巻きタバコを無くして専門店で喫煙店でゆったり時間を楽しむというのがいいのかもしれない。刻みタバコとか葉巻とか水タバコとか。
「禁煙ファシズムと戦う」を読む: 松浦晋也のL/D

ストレスファシズム

何とか農相の吹き出物もストレスが原因だそうである。大臣という重職からくるストレスですか。大変ですね。ストレスは万病の元である。ストレスが元で免疫力が低下して吹き出物も悪化するは風邪も引くはガンにもなる。まさにストレス様々じゃなくて憎しストレスである。ストレスこそがこの地上から抹殺すべき人類の敵である。しかしこのストレスも適度にないと人間の新陳代謝がうまく働かない。適度の刺激が新陳代謝を促進させる。しかし現代はストレス過多のため新陳代謝が促進し過ぎて悪影響を与えてしまうらしいのだ。で結果的にストレス軽減の方に促す事になる。
 で、このストレス過多を徹底的に無くそうとするストレスファシズムというのが想定される。ストレス過多を呼び起こす業務命令なんてとんでもない。それでガンになったなら会社を訴えかねません。ストレスフリーこそが目指すべき社会実現。ストレスが少ない社会へ。ストレスファシズムの誕生である。

選挙ファシズム

ナチスも選挙に行こうと呼びかけたらしい。果ては入院患者まで投票所に連れ出したそうである。投票に行こうよキャンペーンとはそういうものである。言わなくてもどこに入れるか分かってるよね。まったく、このナチス野郎!

選挙に行くべきか

でも参議院だし。参議院だよ、一体何の価値があるんだ。まったく参議院。どうしようもなく参議院。無意味な参議院。投票意欲を削ぐ参議院。だって参議院で否決しても衆議院で賛成されればお終いだし。意味ないじゃん。無駄になる投票。無駄な参議院。なぜその為に投票に行くのだ。私達と政治の間には厚くてブヨブヨなクッションが横たわっていて我々の声は直接届かない。それが参議院。しかも参議院。まったく参議院。それだけの参議院。いらない参議院。まったく議員さんが居眠りする気持ちがわかるよ。無意味だし。ハリボテは眠気に勝てない。ああ参議院。それでもあなたは選挙に行くのですか。

ムスカ大佐的言動

「お前らくずども数千人が束になったって俺一人の方が価値があるんだぜ。そう思わないか。」
なかなか日本ではこういう言動は通らない。けど欧米では結構こういう言動が通ったりする。それがアメリカンドリームの源泉だったりするし。まぁカリスマってやつ。日本のカリスマはそれは容認されない限定的なものだな。

科学的思考が奪ったもの

昔は幽霊などというのもかなり真剣に話されていたのだろう。何せ誰もいるともいないとも決める事はできなかったのだから。つまり科学は幽霊等いないと断言してしまって人々を思考停止に停めてしまったとも言える。その有り余った時間を科学の研究やその他の時間に向ければいいのだから科学は有意義でしょうという考えもあるが実際にそうなっているとは言えぬ。それは各自の日常の想像力を駆使させる場を奪ってしまったとも言えるのだ。それまでは人に相談しながらも各自が結論を出してそういうものと決めていたのを科学がお墨付きを与えて各自の判断を奪ってしまったのである。そこには創意工夫は現れずこの世の危機を科学に投げ出す態度を生じさせた、と見る事も可能である。で、昔の人は幽霊は狐や狸に化かされたんだよ、といって笑った。怖い幽霊も正体が狐や狸という現世的なものであればちっとも怖くないというわけだ。つまりそれが当時の科学に代わる説明だったわけである。しかしそれだって半信半疑で決定的な結論ではなかった。今、科学はその信頼性を揺るがしかねない所に来ているというとちょっとオーバーだがそれは何も悪い事ではない。人々は自己決定権を取り返したいと思っている。科学のお墨付きなんてくそ食らえだ。水伝を信じるも信じないも自分の勝って。科学者なんかにしゃしゃり出てもらいたくない。各自が自分で決めれば良い事だ。幽霊が狐や狸のせいと信じるのと同じように。この世には科学では説明できない事がある。大いに結構。みんな自己決定権を取り戻して人間に戻るんだ。自分の頭で考え人の考えを鵜呑みにしない。自分の頭で思考する事、だってそれが生きてるって事じゃないか。

全てが只になる

コンピュータのソフトはどんどん無料化の方向へ流れています。音楽や映画はどうなるのでしょう。
人類はある朝目覚めてみると全てが無料になっている事に気づく。ソフトも音楽も映画もやり放題見放題。それどころか車も家電もあらゆる物が望めば手に入る。だからといって手当たり次第に手に入れたりしない。ただで手に入れても維持費はしっかりかかるのだから。全ての物は手に入る、しかし維持費はかかる。ここが考えどころだ。ライフハックの見せ所か。仕事だってどこだって選び放題。いつ辞めてもいいしいつ入ってもいい。企業は常に人材募集中で人は常に辞めていく。三日毎に職場を渡り歩いていく奴もいる。これが当たり前になってしまうと別に楽しくもない。それが日常だから。今日も退屈な日々が過ぎていく。さぁ明日は何を見てどこで働こうか。

人生の失敗も経てない、なぜなら一歩も踏み出していないから

まぁ、そうはいっても小さな失敗や挫折は幾千万。けれども大まかには平凡でありふれた人生。それほどの失敗がないのは踏み出していないからと判断するわけだ。今までの経験をどう見るか。そこで表現も変わってしまう。言葉は正確に書き表せないしそのズレが大きくなれば言葉は一人歩きして別な事を語ってしまう。厳密に正確性を追い求めても誰も顧みない文章ができあがるだけ。事実より読まれる文章が結局この世に残る事になる。大勢の読者を獲得する事が後世に残る手段だから。そうやって見ると歴史に残った書物の事実性もかなり疑わしくなってくる。それが残っているのは皆に受けたからでしょう。ごん狐が残っているのも事実の正確さではなく作家の創作性。何が受けるかを分かってる、つぼを押さえた展開。源氏物語が残っているのも創作性。物事の正確性ではない。そうなると昨今の報道もあってはならない事だけど歴史に残る事件というのは創作性の疑いを払拭できない。そこは常にこうだったら更に面白いのにという誘惑の挑戦を常に受ける場であり多くの人間がその誘惑に飲み込まれていった。
 その創作性は芸術なのだから嘘つきと無碍に却下する物ではないだろう。通常は芸術の領域まで昇華させたなどと言う。それが人間の罪だかなんだか知らんけどこうやって後世の人が誤解している事はごまんとあるわけでまぁ残らない事実より残る創作というか後世の人はそこから事実を掘り起こしていくしかない。まぁ兎に角こうやって人類は前に進む。