世の中の可能性

今ある社会は何となくなるようになってしまった世界である。誰かがこうしようと設計図を書いたり綿密な構想を練って作り上げた物ではない。だから今の事業形態というのも過去の成功という結果だけの世界であって偶然の産物も山ほどある。電車内での案内が小煩いのも日本だけの現象であり、それはたまたまこうした方がいいだろうという日本人社会の合意の上で為された習慣に過ぎない。今ある社会が偶然の産物とはいえ、日本人は何度歴史を繰り返しても似たような社会を作り上げそうな気がするが、それでも細かい所では変わってくるだろう。偶々何処かの誰べえが始めた習慣が全国に広まったとか、どっかの殿様がおふれを出して広まったとか、ある事件が元で身に付いた習慣とか。そういう意味では世の中とても限定的なのである。過去に未だ成功しなかったからこの世にないという事は五万とあってそういうのがあっていいじゃないかと思われるのだが誰も始めないから存在しないとか、まぁしかしそれなりの年月があって淘汰されてきたのだから存在しないのは過去に失敗したからとも言えるのであってそう楽観は許されない。そういう意味では現に今あるものというのは歴史に裏打ちされているわけで本物という価値があるのである。だから世の中そう捨てたものでないのは確かなのだが。そう考えると最近の自分の意見は楽観論過ぎたか。日々同じ事を繰り返す事の重要さをまったく知らないわけではない。それが歴史の歩みでもありそれが人間の生活かもしれない。もちろんそれだけでいいわけがないがそういう人が支えている社会はあるわけで、それがあるから挑戦できる人が出て来れるという現実。そういうのはどっかで聞いたような話ではある。