ソクラテスの頃

その頃は人格者としてはあらゆる教養を身に付けていなければならなかったのでしょう。現代のように学問が細分化されてなく数学、文学、歴史、地理、哲学、科学とあらゆる学問に通じている事が男子としての身だしなみのように求められていたのかもしれない。特に地位ある人は名誉をかけてあらゆる学問に重きを置いたろう事は想像に難くない。そこへソクラテスがやって来て○○とは何だ、○○とは何だと問いつめて来て最後にギブアップするとあなたは結局何も知らないんだとやり込めてしまうのだから堪ったものではない。地位ある人にとっては恐怖以外の何物でもない。大衆の中に自分の無知を曝け出されてしまうのだから。そこで示し合わせて裁判にかけ排除しようとしたのだろう。求刑は死刑だが本気で殺そうと思ったわけではない。当時は死刑判決であってもいくらでも抜け穴があってまさか本当に死を選ぶなんて想定外だったのだ。つまり反省してもらって以後行動を慎んでもらうというつもりだったのだ。つまりお灸をすえるというわけ。それを彼は死を持って応えた。これは単に悪法も法だから仕方なく従うという消極的意味合いであったわけではない。つまり教養としての知識だけの学問なんてくだらないよ、そんなの溜め込んでどうするのという彼の異議申し立てだったというのが正統的な解釈だ。