近未来通信という名前

このいかにも社会小説に出て来るような名前はどうなんだろう。いかにも怪しげな雰囲気を醸し出している。名前が不足しているのだろうか。企業は出来るだけ信用を得るような名前をつける動機がある。一方で余り堅苦しくないような名前も求められる。余りにもいろんな名前が出尽くして名前の泉が涸れて来てしまってこんな二流小説に出て来るような名前になってしまったのだろうか。だって初めから騙そうと思って怪しげな名前をつける人はいない。それでもこんな名前になってしまう所が名前が不足している証拠ではないか。商標登録で使われない名前がどんどん登録されてしまい残った名前は怪しげなものばかり。もう正統的な感じを与える名前は出尽くして使える名前が無くなってきている。名前がなくなりつつある。名前が枯渇しつつある。石油のように消えていく。名前も高騰するのだろうか。

いつも一番いいものを

ネットは絶えず変化してその時点での最前のものを届けてくれる。そうすると自分の持ち物があっという間に古くなり最前のものではないという不安に苛まされる。新しい方法も取り入れなくてはならなくなる。いつしかそれに疲れを見いだしもうこのままでいいと思うようになる。余程の不便にならなければ使い慣れたツールを維持すると。だから少しくらいの機能改善や追加機能では乗り換えには至らない。機能改善も追加機能も操作に変更を強いるものだ。それが今までのリズムを崩す。

日本的感性は死んだか

かつて日本的感性というものがあったがどうかは知らないがそういう幻想を抱いていたのは確かなようである。曰く日本では比較広告は下品と思われて成功しない。そんなストレートな表現は奥ゆかしさを大事にする国民性と相容れないと。そんな日本にも平和は去り大変動の真っただ中でグローバリズムの荒波で世界基準の広告が幅を利かすようになったとさ。カード会社や保険会社やパソコンのCMで比較広告は花盛りだ。それでも米ほど直接的ではないのかもしれない。そこがかろうじて残った日本的の防波堤。そう思う心情が古いのか。それを知ってる自分はへへ〜なのか。これは日本の文化的危機なのか。どこにも逃れられないグローバリズム。やっと趣味的感性から脱皮できたと喜ぶべきなのか。その奥ゆかしさはそれほど大事にする程の事でもない。世界と同じスタートラインに立って一から始めてもいいじゃないか。その時に後から日本にはこういうものもあったなと思い出す程度でちょうどいい。
http://mirror-ball.net/2006/11/post_87/

アフォーダンスという幻想

アフォーダンスとは - はてなキーワード

アフォーダンスインターフェイスの設計に生かすことによって,よいデザインの道具を作ることが出来る。
 例えば,今目の前に椅子が置いてあるとする.このときこの椅子は特に「座れ」と字が書いていないのにもかかわらず,この椅子は座れるものだと分かる。これはこの椅子自身が「座る」ことをアフォードしているからである。
 アフォーダンスは,物をどう取り扱ったらいいかについての強い手がかりを示してくれる。(略)説明のラベルなどなくてもすぐ分かる。しかし,単純なものでも説明がいるような道具があるとするなら,これは,よいインターフェイスを持った道具ではないのだ。アフォーダンス理論についてより

しかし椅子というのも教育、経験の結果、椅子は座るものという知識が前提になってないか。椅子というものが存在しない世界からやって来た住人にはそれをどのように扱っていいのか分からない。形が操作を思いつかせるなんて幻想ではないのか。ただそれはこれまでの経験や過去の事例から、昔ヒットした機械はこうやったからそれを引き継いでいるに過ぎない。大流行して経験してしまった後ではその経験を無視して設計する事なんか不可能だ。そういう意味で私たちは歴史から束縛されている。

詰め込み教育でも出来る人は出来る出来ない人は出来ない

ここから得られる教訓はどんな教育方法をとっても出来る人は出来るし出来ない人は出来ない。これは教育方法の敗退ではなかろうか。教育を論じるなんて無駄で実践あるのみ、なのか。出来る人は放っといても出来るのだから、教育法とは出来ない人をいかに救い上げるかの方策である。興味の無い事をやらせるというのが最低の教育方法ではあるまいか。

頭が良い事が善

競争に勝ち抜くには頭が必要というわけで受験戦争も成立する。しかし競争には頭だけでは勝てない事も多い。学者肌では商売は出来ぬと言われたりもする。技術で勝っても商売で負ける。よくある事だ。
既得権を脅かす。それを防ぐにはコストがかかる。だから脅かすだけで手打ちとなって利益が転がり込む事もある。想像力の問題だ。恐れさせる。崩壊を予感させる。そこがつけどころだ。取引が成立する。実際には力を行使しなくても既得権を取り込む事ができる。そういう事に頭を使うという事。これが実務。それが競争社会。それだけの平板な社会。世の中の厚みを出すには頭が良い事だけでは役に立たない。

国鉄があって専売公社があった頃

世界は冷戦構造で氷結してた。個は無力で不動の平和が高気圧のようにどっしり日本全体を被っていた。世の中非効率でも誰もがそれはそういうもので仕方が無いと思い不満も抱かなかった時代。昼休みで業務は止まり、定時で終了する。スーパーもデパートも6時7時で閉まっていた。不便だけれど安定していた時代。ニュートン力学で全てがきっちり計算できるような時代だ。しかし世の中にも相対性理論が侵入しようとしていたのだ。じっくりと、だが確実に。そして誰もが共通の基準を見失い個々に基準を設定しなければならなくなった。