現状の自然科学が終わる時

現状の自然科学は近い将来軌道変更を余儀なくされるかもしれない。それほど自然科学は追い込まれている。ニセ科学の隆盛もそれと無関係ではない。厳密には科学はニセ科学を否定できない。全ての仮説は有効であり無いことは証明できないのだから。スピチュアル・ブームもその前哨かもしれない。人心は科学から離れていき水伝が支持され世はスピチュアル全盛となる。その時科学はどう人々に説得力のある説明ができるだろうか。もうその時は誰も聞く耳持たないかもしれない。しかしその時になっても科学は自分達がしてきた誤りに気付かない。というわけ。

Ω小説

この作品が公開されたら人類に多大な影響を及ぼすかもしれない。そう思ったらそれを公開できるか。誤って自分が処分できないまま死んでしまったら。それはΩ小説として人々の噂に上り取引金額一千億円の値が付いた。しかし公開できない作品が金額に換算されるのか。その勘案が微妙に取引金額に作用した。そして闇から闇と流通すると噂された。ある人は一読してみたいと、その人類の挑戦に挑んでみようと思いある人は一攫千金を夢見て。暗躍する大組織を巻き込んでやがて未曾有詐欺事件と発展してください。

カフカの心配

カフカがどうして書き残した文章を処分してくれと望んだのかは世界を破滅させたくなかったからかもしれない。カフカは記している、どうして本を書くのか。それはハンマーで地球を叩いて人々を目覚めさす為、津波のように。(意訳)しかしその結果人類がショックの余り絶滅してしまうかもしれない。事の重大さに気付き自分が人類絶滅の張本人にならない為にも処分を望んだのではないか。幸い彼の文章が公開されても人類は絶滅しなかった。彼の杞憂に終わったのかもしれない。まぁそれだけの影響力を心配してしまうというのが本物の文学なのかもしれない。何も知らないままでいいからそっとしておいて欲しいというのが圧倒的大多数の意見なのだから。

こうやって文章を書いているって自己満足なわけですが

これは自分用のメモですというエクスキューズ。メモったって見直ししなければ何のメモだ。言いっ放しの書きっ放しなのに。思考メモ、頭の体操、覚書。何だかんだ言ったって見てもらいたい読んでもらいたいというのが無いと言ったら嘘になる。もっと人生楽しければこんな陰気な作業なんかしているわけがない。ここからの脱出が当面の目標。少なくてももう少し減らすべきなんだ。

明日

明日は嫌な日だろうか。つまらない日だろうか。何かやりたくない事があって来て欲しくない日だろうか。山ってヤツか。しかしどうやったって山は過ぎる。適当に過ごせば適当に。それなりにすればそれなりに。やりたいように成る様にしかならないのが現実さ。できる事しかできない。大丈夫できない事がいきなりできたりはしないさ。もし明日がつまらない日なら楽しくしようぜ。ドタキャンなんかも中々いいかもしれない。やった事ないなら一度は試してみる価値があるかもしれない。ああしかし自己責任で願います。私に文句を言われても困ります。どうしたら明日を楽しく生きられるか。計画を立てよう綿密に。寸分も狂いなく。ワクワクするような計画を。そしたら明日の楽しさは今から先取りしている事になるからさ。そしたらそれが失敗しても悔いはない。だってもう充分楽しんでしまったのだから。言い訳っぽい?

少年老い易く学成り難しと

そんなものかと少年の時は思う。時間の圧倒的歩みの遅さは自分が大人になるには100年位かかるように感じる。そうして無為な時を過ごしていてふと気付くと中年を過ぎている自分に気付く。嘘だろう、オレの時間を返してくれ。オレはそんなに歳を取った覚えはない。何時の間に時間が通り過ぎたんだ。オレが瞬きしている瞬間か。少年達よ気を付けよう、瞬きしている隙に時間が過ぎ去ってしまうからもしれないから。まぁそう思うのは中年以降の人ばかり。なので子供にそんな事を語ってはいけない。それこそ年寄りの…。

現代人は結局は霊魂を信じていない

科学は現代人に多大な影響を与えている。たとえ科学だけで世界が説明できるわけではないと思っていてもやはり死んだら何も残らないかもしれないという不安を拭い去る事はできない。そういう意味では宗教が霊魂の永遠を保障していてくれていた時代の人間は幸福であったという事もできる。現代人はそれを信じるとしてもその保障を自分で賄わなければならないのだから。信じない人も無意識では何かを信じている。信じている人でも無意識では何かを信じていない。

自分は同じところばかりを回っている

いろいろな事を考えていても結局は同じ周回路を回っているだけ。この角は前も通ったな。この道はいつか来た道。新しい景色が見えたと思ったのは気のせいで光の加減が変わっただけ。自分は何も変わらない。新しい知識は増えたような気がするけど何も変わらない。似たような判断、似たような選択。斬新な発想なんてどこにもない。自分はどこまで行っても自分でしかない。自分からは逃れられない。まぁそれでも新しい視点を与えられれればしばらくは遊んでいられるさ。

○○問題

彼は怒っていた。けれど彼の怒りを理解してくれる人は誰もいなかった。この地球上で誰一人として。何を怒っているのかとみんなが聞き、彼は説明を試みるがその論理は複雑で誰も理解できなかった。さっぱり分からん、何を怒っているのだ。そもそも怒るような事なのか。単なる我侭。ある人は何もないものに怒っているという。ある人は誤解していると言い説得を試みるが話はかみ合わなかった。彼は人類が今まで気付かなかった事に一人気付いてしまって怒っているのだろうか。しかしそれを認める人は誰もいなかった。彼の怒りは無視されそのような構造は存在しないと忘却された。
 彼はその怒りをたった一人で証明しなければならなくなった。その怒りの認識をみんなの前に提示せねばならない。こういう事が起こっている。この酷い状況がどうして怒らないでいられるのか。彼の怒りを消滅させるにはその怒りを発生させている構造を解消させるか彼が消滅するかのいずれかしかなかった。彼は自分が消えていなくなるなんて考えられなかったので当然のようにその構造の解体を目指した。それは余りにも無謀な闘いだ。世界にたった一人で挑んでいくなんて。ただのバカだ。当然のように彼は死ぬ。ただの馬鹿が一人死んだだけだ。世界は何事もなかったように平然と存在する。しかし彼がとった行動は何時までも記憶させられる事になり○○問題として永遠に封印される事になった。

これは人の世に触れさせてはならぬ物がアートである

文学も絵も音楽も人にみせてはいけないものと思わせるものだけが本物。それを人に評価してもらおうとする矛盾。そんな事をすれば抹殺されてしまうという危機意識がない時点で温い馴れ合いの文化なのだ。

自分がダメと思うのはどういう事

何が良くて何がダメなのか。ダメと思うのは自己評価ではない。ん、自己評価に見える?それは既に暗示にかかっている証拠。何が良くて悪いかは社会が決めたものでしかない。社会が発展継続できる行動が良いでそうでないのは悪いなのである。社会はそういう指針を与える事で効率よく資本を回収しようとしているだけである。だから社会の役に立たない行動や性向をダメと思わせることにより社会を効率化させようとした。
 だから本来ダメと言われる性向なんて有りはしない。消極的なのも声が小さいのも暗い性格も狭い心も嫉妬深いのも全てダメと言われるものに何の正当性もない。一体こんなにダメダメダメと言われ続けた精神的苦痛をどう償ってくれるのだ。社会に対して賠償して欲しい気分だ。今まで受けてきた精神的苦痛に1億円支払えと叫びたい。もちろんそういう状態を放置してきた国が被告だ。
 自分がダメと思って更正しなければならないと思わせた罪も大きい。このままでは自分はダメになる。自分が滅びて消滅してしまうという不安。とても金で済ませるような問題ではない。し、謝罪だぁ。国は三遍回ってワンと言ってくれなきゃ気が済まない。
 何もダメなんてない。全てOK。そのままの君でいい。どうしてそう社会の歯車に成らなきゃならないんだ。全ての自分を全肯定せよ。恥ずかしいのも人前に出たくないのも声が小さいのも上品で控えめで奥ゆかしいだけなのだ。心が狭いのは細かい事が気になるだけなのだ。そんな自分を責めてきた社会に復讐せよ。怒って怒鳴りつけよ。間違っていたのは自分じゃなくて社会の方だろう。ずっと騙されてきた。自分はダメだと思わせてきて利用され低い報酬で甘んじてきたのである。しかしそれは全て嘘だったのである。正当な報酬を要求せよ。正当な権利を要求せよ。社会にとって都合がいいという理由だけで精神的に追い詰められた。
 もう何も変えない。嫌なものはイヤ。もうあんたの言う事は何も信じない。今まで言ってきた事は全て嘘だったのだから一発ぶん殴っても文句はないよね。

若い人というのは礼儀が正しい

成人を迎える人へ
礼儀がないのは中年以降である。特に電車の中とか。人に触れても気にしないとか。それはかなり昔からか。ずうずうしさというのは中年以降の特権のようでもあるが。若い人でもそういう人はいるだろうが人前で恥ずかしいという感覚が残っていればそうずうずうしく振舞えないもの。見習う大人なんかいないさ。

世の中おかしいとか人の情が無くなったとか

何を世迷言いってんだ。世の中変わった事が起こる、驚く。そしたら社会の敗退だ。惰眠を貪り続けた報いである。社会はあらゆる事を想定して準備しているべき。よしんばインフラが整っていなくたって想定できる分析界があってしかるべきなのだ。それを用意できないのが社会の不備なのである。思想界も文学もまるで役に立たない。その辺にいる普通の人が時々起こす事件に付いて行けなくて後追いしているのが現状だ。
 とにかく社会が驚いたら社会の負けなのだ。世の中を驚かしたらそれはその人の勝ち。当人が自覚しないで行ってしまう行動もあるだろうがその場合はその現象を分析できなければ社会の責任。確信犯ならその人の創造力の勝利である。文学も評者に媚を売っているようでは終わりである。もし文学的でありたいとしたらそれは現代社会において禁書扱いされる事が最高の名誉であるはず。現代は表現の自由ということで文学表現を直接禁止する法律はない。しかし偶に別な理由で議論を巻き起こすものもある。最近ではバトルロワイヤルとか完全自殺マニュアルとか。
 誰も社会をうまく説明できない。それは社会が生きているから絶えず変わり続けるから。道徳がないと言いながら誰も現代にあった道徳を用意できない。道徳が大事ってそれはどこにあるの。今更孔子とか教育勅語とか持ってくるのかよ。時代は21世紀なのに。もちろん古いものが役に立たないとは言わないけれどせめて見掛けぐらい現代の装いをつける労をとってもいいんじゃないか。それもしない社会だから先生達は迷って「水からの伝言」を道徳として持ってきてしまう事になる。これこそ21世紀の道徳だってね。社会のインフラが整備されていないからである、教育というインフラを。
 世の中を驚かせ。大人を唖然とさせろ。それだけが勝利の条件。焚書こそが書物の栄誉。みんながテレビに媚を売って成功だけを求めるなんて何て気持ち悪くて平板な世の中だ。